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女声合唱団木声会演奏会「緋国民楽派」をうたう (2002年7月4日)
 「緋国民楽派」をうたうと題した女声合唱団木声会の演奏会を聴いた。林光の「島こども歌1」、寺嶋陸也の「大いなるきょうという日に」、萩京子ソング集、吉川和夫のアメリカ・インディアンの詩による連作合唱曲「風と薔薇の神話」(委嘱作品)という4ステージ構成で、委嘱作品を含め、あまり一般的に知られていない「緋国民楽派」というグループの作品を中心にした意欲的なプログラムだ。
 全ステージとも、沖縄の言葉、訳詞も含まれるが、歌詞はすべて日本語であった。それだけに、歌詞の性質や内容の違いが演奏を大きく左右したのをはっきり感じた。
 第1ステージの沖縄の言葉は、日本語の方言のひとつには違いないが、歌い手にとっては、外国語のような響きがするなじみの薄い言葉である。第2ステージのベルトルト・ブレヒトの訳詞は現代口語で言葉としては抵抗がないが、詩の内容が難解であり、やはり歌い手の生活実感から距離がある。それがそのまま演奏に表れてしまったかのように、歌い手が一生懸命演奏しているのは分かるが、いまひとつ迫ってくるものが感じられない。
  それに比べて第3ステージは、歌い手が実感をもって歌詞を歌い込むことができており、メロディーの親しみやすさも相まって生き生きとした音楽になっていた。
 第4ステージのアメリカ・インディアンの詩は日本の現実の生活とはかけ離れたもののはずである。しかし、原詩の内容が人間の根源的な心の奥底に響くのかもしれない。言葉の持つ呪術的な力が歌い手に乗り移ったような気迫のこもった熱演であった。
 すべてを歌詞の問題として片付けるのはあまりに短絡的かもしれないが、どのステージも音楽的に非常に高いレベルだっただけに、私が感じた違いはやはり、歌い手がどれだけ実感を持って歌えるかという歌詞の差ではないかと思われて仕方ない。
 人間には想像力があり、実際に体験していないこと、実生活からかけ離れたことも想像力を使って思い描いたり、それを表現したりすることができる。しかし、やはり実生活に根ざした実感を伴った言葉は力を持っており、想像力がそれを越えることは並大抵のことではないのであろう。