宮城教育大学混声合唱団第37回定期演奏会 (2005年12月4日) |
今日は宮教大混声合唱団の定期演奏会を聴いてきました。会場は若林区文化センターでした。私が大学生だった頃、定演はだいたい市民会館で行っていました。1200以上客席がある大ホールに半分もお客さんが入らず、ずいぶん空席が目立っていたのを覚えています。若林区文化センターは規模的にも宮教大混声の定演にちょうどいいホールです。音も素直な響きでなかなかいいと思いました。 宮教大混声は今年初めてコンクールに出場しました。県大会で金賞を取り、東北大会に出場しました。そのとき歌った課題曲と自由曲が第1ステージでした。きれいによくまとまっていて、東北大会に行ったというのもうなずける演奏でした。課題曲と自由曲3曲でしたが、どの曲も私の知らない作曲家の曲で、初めて聴くものでした。4曲全て違う作曲家の曲というステージでしたが、ちぐはぐな感じはなく、どの曲もなかなか魅力的な曲だと感じました。(選曲のセンスが良いと感心しました。) しかし、第2ステージからはちょっと不満なステージが続きました。第2ステージは「日本の歌 世界の歌」と題して、滝廉太郎の「花」、「トロイカ」、「フニクリ・フニクラ」などさまざまな小品を歌うステージでした。けれども、声の使い方や曲のつくりがどの曲も同じで、曲ごと(国ごと)の特徴が感じられず、平板な演奏でした。 第3ステージは「水のいのち」でした。客演の板橋先生は相変わらず真面目で丁寧な音楽作りをしていて、良い演奏だとは思うのですが、私には「水のいのち」の印象深い演奏の思い出があるので、それと比べて物足りなさを感じてしまいました。 第4ステージは信長貴富の「新しい歌」という曲でした。大学の合唱団にぴったりといった感じの曲で、宮教大混声の声にも合っていると思ったのですが、最後まで声も言葉も客席の方に迫ってくることのないこじんまりとまとまった演奏でつまらなく感じました。 先週の東北大混声合唱団の演奏会のときにも感じたことですが、学生の演奏会なのに、なぜこじんまりと小ぎれいにまとめてしまうのでしょうか。私は(たぶん聴きに来ているお客さんの多くもそうだと思います)大学生のそつのない無難な演奏を聴きたいのではないのです。多少荒削りでも、自分たちはこんな歌が歌いたいんだ、こんな音楽作りをしたいんだという姿勢が見える演奏が聴きたいのです。 私が学生だった頃は、大学の合唱団はどこももっと主義主張のある演奏をしていたような気がするのですが、気のせいでしょうかね。 |