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音楽 一期一会 1 (初めて買ったシングルレコード) 2005. 8.20 |
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一期一会とは、「一生に一回しかない大切な出会い」ということだそうですが、心に残る音楽との出会いは、まさに一期一会なことではないでしょうか。これから、音楽との出会いのさまざまな思い出を、音楽一期一会と題して書いていこうと思っています。
お盆で実家に帰省して、部屋を片付けていたら、昔のレコードが出てきました。 LP レコードは仙台に持ってきて聴いたり、聴かなくなったものは処分したりしましたが、シングルはずっと実家に置いたままでした。久しぶりにそのシングルレコードたちと対面しました。
その中で、この2枚(ガロの「学生街の喫茶店」と、かぐや姫の「神田川」)は初めて自分で買ったメモリアル・レコードです。記念すべき音楽一期一会の第一回は、この2枚の記念すべきレコードについて書きます。
ガロの「学生街の喫茶店」を初めて聞いたときの印象は、「シャレた感じの曲だなあ」だったと思います。私はそのときまだ小学生だったので、曲の印象を適切な言葉で言い表すことができませんでした。そのときの感覚を思い出して言葉にしてみると、別れ(正確に言うと別れの追憶)の曲なのにメロディーが格調高くてベタベタしていないし、そのメロディーを引き立てるクラシックな編曲も優れていました。歌詞も、「学生」「喫茶店」という小学生にとって未知の世界の出来事であり、漠然とした憧れを抱かせるものでした。とにかく、当時の私には格段にオシャレでカッコいい曲に聞こえたのです。
一方、かぐや姫の「神田川」は、小学生の私にとって とても悲しい歌でした。(その当時は語彙が少なかったので、悲しい歌だと思っていましたが、今考えてみると、悲しいと言うより、切ないと言う方が的確だと思います。)
歌詞だけを見ると、年を取った夫婦が、若かった頃を懐かしんでいる歌だと思えなくもありません。小学生の私はそう思いたかったのです。しかし、あのメロディーに乗ってあの歌詞が歌われるとき、幼い私にも幸せな老夫婦の歌だとはどうしても思えませんでした。しかも歌詞の最後は「貴方の優しさが怖かった」という、別れを予見したかのような重い一言です。
歌の中の女の人は「貴方と銭湯に行ったこと」や「貴方が似顔絵を描いたこと」などという小さな出来事までよく覚えていて、一つ一ついつくしむように思い出しているわけです。そんな些細なことを最高に幸せだった日々のエピソードとして大切にしているこの人は、今どんな暮らしをしているのだろう、どうして「貴方」と呼んでいる人との幸せな日々は続かなかったのだろう、そんな思いが心を駆け巡り、いたたまれない気持ちになるのですが、やっぱり聴きたくてレコードを買わずにはいられませんでした。
シングルレコードは当時1枚500円、小学生には高価なものだったので、初めて自分で買ったのはお年玉をもらったあと、初売りの日でした。
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音楽 一期一会 2 (初めて買ったLPレコード) 2005. 8.27 |
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私が初めて自分で LPレコードを買ったのは、確か中学校1年生のときです。そのとき買ったのがこの N.S.P ファーストです。
N.S.Pは、私の郷里・岩手県の一関高専の学生3人が結成したフォーク・グループですが、その時はもうプロとして活動していました。当時、岩手では地元出身のグループということもあって絶大な人気を誇っていました。アルバムもすでに何枚かでていましたが、始めから聴いていこうと思って、ファーストアルバムを買いました。(その後すぐに、それまでに発売されていた
N.S.P の LP を全部買いました。それ以降は、ニューアルバムが出るたびに買いました。)
それまでは、ガロの「学生街の喫茶店」にしろ、かぐや姫の「神田川」にしろ、その曲を好きになるのであって、ガロやかぐや姫というグループを好きになるのではありませんでした。ところが、N.S.P
は違いました。このN.S.P ファーストの中には「さようなら」や「あせ」などの初期の名曲が入っていますが、その曲だけを聴きたいためにアルバムを買ったのではないのです。N.S.P
というグループがつくりだす音楽・歌の世界が気に入ったのです。
それはやはり地元出身のグループという親近感もあったと思いますが、とにかく彼らの歌の世界は、田舎に住む自分たちとすっかり重なる、私がよく知っている日常の匂いがしたのです。まあ、言ってみれば、高専の兄ちゃんたちが俺たちが思っていることを歌にしてくれた
という感じなのです。 N.S.P が歌うのは、等身大の自分たちの歌という気がしました。
私の中学校時代は、N.S.P の歌とともにあったといっても過言ではありません。N.S.P の曲が弾きたくて、フォークギターを買いました。左手の指先にまめを作りながらずいぶん練習しました。自分でフォークギターを弾くようになって、吉田拓郎、イルカ、井上陽水、そして「神田川」以外のかぐや姫の曲も聴くようになりました。
N.S.P との出会いをきっかけに、私の音楽の世界は飛躍的に広がりました。そう考えると、N.S.P ファーストを買ったことは、私にとってまさに一期一会だったのです。けれども皮肉なことに、N.S.P
がメジャーになり、その曲が洗練されていくにつれて、私は N.S.P から離れていきました。私が彼らのアルバムを買ったのは、ちょうど10枚目にあたる「八月の空へ飛べ」が最後になりました。
ちなみに N.S.P は、ニュー・サディスティック・ピンクの略称ですが、正式な名前より略称の N.S.P の方がよく使われるようです。
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音楽 一期一会 3 (魔王とフィッシャー=ディースカウ) 2005. 9. 3 |
私が初めて聴いたドイツ・リートがシューベルトの魔王です。中学校1年生の音楽の授業で聴きました。
最初に先生が、「鑑賞の手引き」といった感じの資料を使って魔王という歌曲の構成や作曲の経緯、歌詞の大意などを説明してくれました。それによると、この歌曲で歌い手は、嵐の中に馬を駆る父親、熱にうなされる子ども、魔王、そしてその物語の語り手という4役をこなさなければならないということでした。歌い手には4つのキャラクターを演じ分ける声色が要求されます。さらに、魔王は一つの役の中で子どもを誘惑する猫撫で声から、本性を現した恐ろしい声まで声色が大きく変化します。役ごとに声を使い分け、一つの役の中でも声色を変えていくという技術的に大変高度な歌曲ということでした。
最初に、日本人の歌手(かなり有名な歌手だったはずですが名前は忘れました)が日本語訳で歌ったレコードを聴きました。まず前奏に惹きつけられました。まさに風雲急を告げるといった緊迫した前奏。一瞬にして物語の世界に引き込まれました。
日本語で歌われているためか、物語の進行もよくわかり、特に最後の一言「すでに息絶えぬ」は弱音で歌われているのに衝撃的で身震いするほどでした。こんな劇的で恐ろしい歌は聴いたことがありませんでした。一発でこの曲が好きになりました。
つぎに、同じ歌手がドイツ語で歌ったものを聴きました。日本語で歌われていたものに比べると、ドイツ語になった分キャラクターごとの違いがわかりにくく、全体が均質化して平板に聞こえました。やはり言葉がわからないとつまらないなと思っていたら、先生が「最後に、ぼくが一番好きなフィッシャー=
ディースカウという人のを聴かせるからね。これは凄いよ。」と言って、もう1枚のレコードをかけてくれました。
本当に凄い演奏でした。前奏からしてものすごく怖い音がしました。(ピアノはジェラルド・ムーアだったと思います。)そして歌いだしたフィッシャー=
ディースカウの声の使い分けのなんと見事なこと。ドイツ語で意味がわからないはずなのに、誰がどんなことを歌っているかはっきり伝わってくるのです。特に、子どもに語りかけてくる魔王の猫撫で声は気味悪いほどで、それが後半に向かって次第に荒々しい声に変わっていくのが見事でした。先の日本人の歌ったもの(レコードになっているくらいですから、それなりのレベルの演奏なのでしょう)とは比べ物にならない、格の違いを感じました。
私の心に、シューベルトの魔王という恐ろしく劇的な歌曲と、フィッシャー= ディースカウという凄い歌手の名前が刻まれました。そして、自分周りには、魔王のような曲があり、フィッシャー=
ディースカウのような歌手たちがいる計り知れない未知の音楽世界が広大に広がっていているのだということを漠然と感じました。 |
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音楽 一期一会 4 (合唱部) 2005. 9.11 |
私は、歌と言えば N.S.P や吉田拓郎などフォークソング、クラシック音楽と言えば学校の授業で習うものがせいぜい、合唱と言えばこれも全員参加の校内合唱祭にしかたなく参加するだけという、音楽にあまり関心のない中学生でした。そんな私の転機となったのが中学校3年生の7月、合唱部に入ったことでした。
中学校時代、私はずっと体操部で活動していました。中学校に入学して部活を何にするか決めるとき、運動部に入りたかったので、身体が小さくて痩せていても(入学当時、身長はクラスで前から2番目でしかもかなり痩せていました)ハンディにならないのは何だろうと考え、体操部を選んだのです。それ以来体操一筋で、合唱とは何の関係もない生活を送っていました。
そんな私でしたが、中学校3年の中総体が終わってしばらくたったある日、合唱部の顧問の先生に声をかけられました。
「運動部の活動が終わって力が余っているなら、合唱部に入って歌ってくれないかな。合唱部の男子は少ないので、ぜひ助けが必要なんだ。運動部でがんばってきたその力を今度は合唱の方に向けてみてくれないか。合唱をしたから高校受験に失敗したと言われるのは嫌だから、運動部でもこいつは大丈夫だと見込んだやつにしか声はかけないんだが、君なら大丈夫だ。」
最後の一言でいい気分になり、「そんなに見込んでくれるなら」と合唱部に入ることにしました。音楽室に行ってみると私のほかにも、野球部、陸上部、バスケットボール部などから数人の新入部員が来ていました。
実際に合唱部での活動が始まってみると、今までの体操部とはまったく違った世界であることが分かりました。体操は全くの個人競技です。団体戦という名前がついていても、個人の点数の合計がチームの得点になるだけで、演技をするうえでお互いに助けたり助けられたりということはありません。頼りになるのは自分の力だけ、失敗するのも怪我をするのも自分の責任です。対戦相手もチームメイトもいない孤独な競技です。
ところが合唱はまるでちがいます。合唱は一人では成り立たないチームプレイの究極のようなものです。私は初めてチームワークの難しさと、ハーモニーの楽しさを合唱部の練習の中で教えられました。入部して2か月たらずでコンクールに臨むのですから、非常にハードな練習だったはずですが、今思い出してみると楽しかったことしか思い出せません。
その年、私たちはNHK合唱コンクールの地区大会、県大会で金賞を得て、東北大会まで(東北大会はテープ審査なので、実際に歌ったのは県大会まで)行くことができました。また、TBC子ども音楽コンクールでも東北大会まで進み、こちらは実際に東北大会の行われた仙台(東北大学・川内記念講堂が会場)まで行って歌いました。
たった5ヶ月の間でしたが、合唱の難しさと楽しさを知ったこと、みんなでがんばった結果としてコンクールで良い成績を収めることができたことは何物にも替え難い経験でした。みんなが心を一つにするチームワーク(私にとってそれは合唱とイコールでした)っていいものだなあという思いが心の底まで染渡りました。
大会もすべて終わり、3年生の合唱部最後の活動のとき、3年生の挨拶や後輩たちからの送る言葉のあと、最後の最後に今まで練習してきた歌を歌いました。みんな歌いながらぼろぼろ泣いていました。私も、体操部の最後の活動では泣いたりしなかったのに、このときは涙が止まりませんでした。 |
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音楽 一期一会 5 (宮城教育大学混声合唱団) 2005. 9.17 |
中学校3年生で合唱に出会った私ですが、高校3年間は合唱とあまり縁のない生活を送りました。高校でも体操部に入った私には、また体操に明け暮れる日々が続きました。高校の運動部は本当によく練習します。わが体操部も例外ではありませんでした。お盆と正月と、部活が禁止になるテスト期間中を除くと、土曜も日曜も休まずに毎日練習しました。一年365日のうち350日は練習していたと思います。合唱部の活動にも興味はありましたが、運動部とは掛け持ちなどできるはずがありません。こうして私は高校3年間を、勉強よりも何よりも体操に没頭して過ごしました。
私は、あまり勉強もせずに3年間体操ばかりやっていましたが、宮教大(当時、芸術・体育系の入試に即興的な表現力テストを導入するなど、ユニークな入試で全国的に注目を集めていました)を受験(芸術・体育系の表現力テストは捉えどころがなくて勉強のしようがないので、私は小論文などの試験を行う文系で受験)し、無事に合格することができました。私は大学に行くと決めたときから、「もし大学に入れたら、合唱をやろう」と考えていました。中学・高校とずっと体操をやってきましたが、大学でも体操を続けるというのは、体育専攻とか、クラブチームに入っているとか、かなり専門的にやっている人でないと難しいだろうと思ったからです。また、中学3年のときに知った合唱の楽しさが忘れられず、どうしてももう一度やりたかったからです。
私は入学式が終わると、ほかのサークルの勧誘には目もくれず、すぐその足で合唱団のサークル室を訪れ、入団の手続きを済ませました。何のためらいも迷いもありませんでした。こうして私の大学の合唱団での活動が始まりました。合唱団に入って、たくさんの仲間に出会うことができました。音楽的にも人間的にもすばらしい多くの先輩に恵まれました。今でもつき合いの続いている友人の多くは、大学時代の合唱団仲間ですが、合唱団の人間関係がいかに濃いものだったかという証だと思います。
合唱と出会ったのは、中学校3年生のときでした。けれども、私の本格的な合唱活動のスタートは、この「合唱団入団の日」だったと思っています。宮城教育大学混声合唱団は、私の全ての音楽活動の原点です。 |
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音楽 一期一会 6 (パレストリーナ ミサ「エテルナ・クリスティ・ムネラ」 ) 2005. 9.24 |
私たち1年生が入団したことによって、宮教大混声合唱団はそれまで20数名しかいなかった団員が、40名を越えました。
このとき宮教大混声合唱団は、5月末に東北大混声合唱団とのジョイント・コンサートを控えていました。合唱団としてはたくさんの新入団員を迎えることができてうれしい半面、本番まで1ヵ月半しかないジョイント・コンサートに向けて、3分の1以上が新入団員というメンバーで曲を仕上げていかなければならないという厳しい状況にあったのです。(もちろん入団したばかりの私には、そんな先輩たちの新入団員受け入れの苦労は分かりませんでした。)新入団員歓迎のイヴェントもそこそこに、さっそくジョイント・コンサートに向けて練習が始まりました。
このとき、宮教大のステージの曲は、パレストリーナのミサ「エテルナ・クリスティ・ムネラ(キリストの永遠の捧げ物)」でした。中学校で合唱をしただけの私は、ミサ曲はおろか、外国語の歌も歌ったことがありませんでした。ミサ通常文は一部ギリシャ語を含むラテン語ですから、逐語訳で意味を知る以外は語感などはまったく分からず、言葉に関しては取り付く島もないといった感じでした。また、伴奏のつかないアカペラの曲はそれまで歌ったことがありませんでしたから、全曲を伴奏なしで歌うことがもの凄く高度な超絶技巧のように思われました。さらに、いままで慣れ親しんでいた音楽は、だいたいがメロディーに和音がついた形のホモフォニーの音楽だったので、ポリフォニーの典型のようなミサ曲は、これまた、まるで別世界の音楽のように感じました。
しかし、初めて歌ったパレストリーナは、キリスト教をまったく知らない私でさえ敬虔な気持ちにさせる音楽でした。透明で澄んだ響きは私の思う宗教曲そのものでした。(Kyrie
の終わりの空虚五度の響きは特に宗教的だなあと感じました。)全曲の中でも私が一番好きなのは Gloria で、特に Laudamus te Benedicimus
te Adoramus te Glorificamus te を男声・女声で呼び交わすように歌うところは、初めて歌ったあの時も、いま聴いてみてもいいなあと思います。(初めて歌ったときは、初めてのはずなのにとても懐かしくて温かい気持ちになりました。)
私にとって初めてづくしだったパレストリーナのミサ「エテルナ・クリスティ・ムネラ」は特別に思い出深い曲になりました。その後、私は宮教大混声合唱団で、同じパレストリーナのミサ・ブレヴィスや教皇マルチェルスのミサ曲、ヴィクトリア、ラッスス、バード、ピエール・ドゥ・ラリューのミサ曲などを歌う機会がありましたが、好きなミサ曲は?と問われると、やはり一番最初にこの曲が思い浮かびます。 |
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音楽 一期一会 7 ( 水のいのち と 岡ア 光治 @ ) 2005.10.15 |
大学の合唱団に入って初めての定期演奏会で、高田三郎の「水のいのち」を歌いました。客演指揮は岡ア光治先生でした。
岡ア先生は、春の東北大学混声合唱団とのジョイントコンサートで合同ステージの指揮者だったので、私も先生の指揮で歌いました。当然、コンサートの前に岡ア先生の練習を何回も経験したはずです。けれども、ジョイントコンサートの頃、私は入団したばかりで毎日が怒涛のごとく過ぎていたので、岡ア先生も「豪快でヴァイタリティーあふれる先生だな」くらいの印象で、今思い出そうとしてもこれといった記憶がありません。ですから、岡ア先生の強烈な印象は、定期演奏会の客演指揮のとき「水のいのち」とともに刻み込まれたものです。
初めて岡ア先生が定演の練習に来る日、私は授業を終えて練習会場の音楽棟第4演習室に行きました。いつものように学生指揮の先輩が準備運動や発声をしましたが、先輩たちがみんなとても緊張しているのが伝わってきました。ところが、私が記憶しているのはここまでで、先生が練習会場に入って来たときの様子や、先生の最初の挨拶などは覚えていません。次の記憶は、もう練習に入ってからのさまざまな瞬間のもので、しかもその記憶の数々は何回目の練習のときのものか、日付も順番も定かではありません。
一番印象的な岡ア先生の言葉は「そんなのは声じゃない!」です。よく怒鳴られました。先生はうわべだけの表現を嫌いました。そのときの精一杯の表現でないとだめなのです。音量だけ大きくても魂がこもっていない
ff はだめでした。いくら ff で歌ったつもりでも、その倍くらいの声で怒鳴られました。一人暮らしで命を削るようにして音楽をしている凄まじい先生の実生活をみんな知っていましたから、先生の言葉には迫力がありました。
一番笑ったのは、Alt. を怒鳴ったときの言葉です。「そんなのは声じゃない!」と怒鳴ったあとに先生が、「Alt. はみんな肉を買ってきて・・・」と言うので、私は(多分みんなも)「食え!」と言うのだろうと思ったのです。ところが、先生は腹の周りに帯を巻くようなしぐさをしながら「付けろ!」と言ったのでした。非常に緊迫した場面での先生のユーモアあふれる一言に、みんなは大笑いしました。Alt.
がこのあと(肉を付けなくても)いい声を出したことは言うまでもありません。 |
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音楽 一期一会 8 ( 水のいのち と 岡ア 光治 A ) 2005.10.22 |
岡ア先生の「水のいのち」を一言で言えば「速くて激しい」でした。それはまるで、何かに急き立てられているような速さ、何かに突き動かされるような激しさでした。
私は大学の合唱団に入る前は、5ヶ月足らずの中学校合唱部以外にほとんど合唱経験がありませんでした。そんな私でも「水のいのち」は聞いたことがありました。全体に穏やかな感じの組曲だというイメージを持っていました。また、客演の岡ア先生がいらっしゃるまでの練習は、代振りの学生指揮で歌っていましたが、それでも、第3曲の「川」を除いてはあまり激しい歌だとは感じませんでした。
ところが、岡ア先生が振ると第1曲の「雨」からして速くて激しい曲になりました。合唱団はテンポに乗り切れず、何度も「3拍め、6拍めが遅い!」と指摘されました。とにかく岡ア先生のテンポに食い付いていくのがやっとでした。Lento
tranquillo の曲がなぜこんなに速くて激しいのか分かりませんでしたが、先生の身体全体から「このテンポでなければならない!この強さでなければならない!」というオーラが出ていて、私はそれに引き込まれて歌っていました。私は、先生の要求するテンポと激しさには、先生のそれまでの人生や生きる姿勢(人生観と言ってもいい)が懸かっていると感じました。岡ア光治が自分の人生に照らして読み取った曲の本質を表現するためには、高田三郎の示したものとは違うあのテンポとあの激しさが必要だったのだと思います。歌い手に、そのときに出来る精一杯の表現を要求するのと同じように、岡ア先生はそのときの自分の全てを懸けて曲を読んでいたのでしょう。だから、作曲者の指示とは全く違ったテンポ設定や音量設定にもみんな納得して歌ったのだと思います。
第2曲の「水たまり」でも驚くようなことを言われました。「歌いだしは出来るだけ明るく、軽薄な声で歌ってほしい」「水たまりを馬鹿にしたように、見下したように優越感を持ってあっけらかんと歌ってほしい」と言うのです。合唱団が言葉一つ一つにとらわれて大切に歌おうとすると「一つの言葉を大切に取り扱うとそこに意味が出てしまう」「意味を持たせないで突き放して歌う!」と言われました。明るく軽薄な声で歌っていたのが、「わたしたちに肖ている 水たまり」を歌う3小節の間に、音色の変化で心が暗転する様子を表現する・・・それを何度も練習しました。
「水たまり」は A - B - A の形式なので、最後に冒頭と同じメロディーが帰ってきます。こちらは、音色に細心の注意を払って、いとおしむような慈しむような温かい声で歌うように言われました。そうして歌ってみると、これが冒頭と同じメロディーだろうかと思うほど美しいのです。誰にも省みられることのない小さい存在である水たまりが、それでも精一杯けなげに生きようとする姿と、それを見守る温かいまなざしが感じられて、歌いながらも思わず涙がにじむことが何度もありました。定期演奏会が終わっても、組曲の中で「水たまり」が一番好きな曲でした。 |
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音楽 一期一会 9 ( 水のいのち と 岡ア 光治 B ) 2005.10.29 |
第3曲の「川」はどんなに激しいものになるのだろうと思っていたら、意外にも岡ア先生の最初の注意は、「常に8分の12拍子の刻みを感じて歌うこと」という合唱団にある意味での冷静さを求めるものでした。しかし(当時は分かりませんでしたが)いまになってみると、それは言葉の意味をしっかり伝え、しかも骨太な音楽を作るための重要な注意だったことが分かります。歌詞の重要な言葉の語頭は、8分の12拍子の6拍め・12拍め(どちらもいわゆる裏拍)に来ることが多く、常に拍の刻みを意識していないと言葉が流れてしまいます。だからといって、言葉をはっきりさせるためにそこだけ強調したりすると、フレーズ感のない切れ切れの音楽になってしまいます。つまり大事な言葉をしっかり歌い、しかもフレーズ感を損なわないためには、常に8分の12拍子の刻み感じて音楽の流れに乗りながらも6拍め・12拍めに来る語頭を正確なタイミングと適切な強さで歌うことが必要なのです。
いまでこそそれが分かりますが、当時は一番激しい曲だと思っていた「川」で冷静さを求めるような注意をされてとても意外に感じたものでした。
第4曲の「海」は穏やかな曲ですが、この曲でも意外なところで強い表現を求められました。確かに f 、ff は記されていますが、つい何の気なしに通り過ぎてしまう「岩と混じれなくて ひねもす たけり狂うこともある」の部分では、「これぞ宮教大の男声だ!という声で歌え」と言われました。また「人でさえ 行けなくなれば そなたを さしてゆく」のところでは先生がもの凄い形相だったので、合唱団も凄い声が出ていたと思います。(人間の驕りが打ち砕かれる表現をしたいというようなことを先生はおっしゃっていたように記憶しています。)
第5曲の「海よ」では、中間部の「あふれるに みえて あふれることはなく」の部分が特に印象に残っています。先生は Alt. が歌うオブリガートを重要に考えていたようで、入念に練習していました。ほかの3声と
Alt. のディナーミクが微妙にずれているところが、ゆっくりとたゆとう海のうねりを表現しているのだと先生は言われました。それまでその部分をフィナーレに入る前の小休止みたいなところだと思っていた私は、目から鱗が落ちたように感じました。
フィナーレについてはもう何も言うことはありません。前に組曲の中で「水たまり」が一番好きな曲だと書きましたが、組曲の中で一番好きな部分はこのフィナーレです。
岡ア先生の指揮で歌った「水のいのち」は、私が今まで経験した全て演奏のなかで、最も印象深い演奏の一つです。あれ以来、どの団体が歌ったどんな「水のいのち」を聴いても、なんだか気が抜けたような物足りなさを感じてしまいます。 |
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音楽 一期一会 10 (フォーレ「レクイエム」) 2005.12.10 |
大学の頃はできるだけ演奏会を聴きに行くようにしていました。岩手の田舎から出てきた私にとって仙台は大都会でした。それを実感するのが、毎晩どこかでコンサートが開かれているということでした。大学に入って音楽をやり始めた私は、合唱に限らずいろいろな演奏をできるだけたくさん聴きて自分の音楽的経験を増やしていこうと思っていたのです。特に11月から12月にかけては大学の音楽関係のサークルが定期演奏会を開く時期です。この時期私は、自分の合唱団の練習のない日は演奏する団体や演奏曲目に関係なく、手当たり次第に演奏会に通っていました。
フォーレの「レクイエム」を初めて聴いたのも、そのようにして行った演奏会のひとつでした。東北学院大学混声合唱団「ヒムネンコール」の定期演奏会でした。ヒムネンコールは、30人台の合唱団でしたから、この人数でオーケストラ付きの曲をやるのかと驚きました。当時、私はオーケストラ付きの合唱曲と言えばベートーヴェンの第九ぐらいしか知らず、オケ付きの曲はとにかく大人数で演奏するものだと思っていました。
演奏が始まると、私の耳は初めて聴くその美しい曲に釘付けになりました。世の中にこんな美しいオケ付きの曲があるのかと驚きました。私は、第九のイメージでオケ付きの曲はみんなオケに対抗して大音量でがんがん歌う野蛮なものだと思っていたのです。(ベートーヴェン先生、ごめんなさい。でも正直言って当時、第九に対する私のイメージはそうでした。)
フォーレの「レクイエム」は1曲1曲それほど長い曲ではありません。でもそのどれもが音の宝石のようだ、あるいは一瞬一瞬美しく変化して留まらない万華鏡のようだと感じました。中でもソプラノソロのピエ・イエズはこの世のものとは思えないほど美しいと感じました。シンプルでコンパクト、まさに美しさの結晶だけがそこにあって他に何もない、そんな印象でした。
今までたくさんの演奏会に行きましたが、フォーレの「レクイエム」を初めて聴いたこの演奏会ほど衝撃的だったものはほかにありません。 |
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音楽 一期一会 11 (小野 浩資@ ) 2006. 3.25 |
いよいよ小野浩資先生のことについて書くことになりました。小野先生に出会っていなかったならば、私の現在の音楽との関わり方はずいぶん違ったものになっていたでしょう。小野先生との出会いは、私のその後の人生を変えてしまいました。
音楽の師として、技術的にも精神的にもたくさんの教えを受けた小野先生、私のその後の音楽活動に計り知れない影響を与えた小野先生ですが、先生との出会いは意外と遅く、私がもうすぐ大学の2年生になろうとする春休みのことでした。(小野先生は混声合唱団の顧問だったのですが、私はお会いすることもなく約1年間過ごしていました。)
実をいうと、私は前の年の12月に、別の用事で小野先生のお宅を訪れ、そのときお会いして言葉も交わしていました。小専音楽の授業でお世話になった大泉先生に、アルバイトとして仙台少年少女合唱隊の演奏会で使う舞台装置を小野先生のお宅の倉庫から電力ビルまで運ぶ仕事を頼まれたのです。小野先生の木ノ下のお宅まで行って、オペラ協会公演で使った舞台装置を倉庫から運び出し、大泉先生の車で電力ビルまで運んだのですが、そのとき大泉先生より私の方が先に小野先生のお宅に着いたので、何かしら話をしたはずなのですが、話の内容は全く覚えていません。ただ、サンダル履きで出ていらっしゃった先生がとても物静かな口調だったということだけが印象に残っています。
大学1年の春休み、小野先生は宮教大混声と東北大混声のジョイント・コンサートの客演指揮として私の前に現れました。ほんの3ヶ月前(定期演奏会)まで岡ア先生の激しい指揮で歌っていたので、小野先生の指揮はどんなものだろうと私は興味津々でした。
小野先生の指揮は、一言で言うと歌いやすい指揮でした。声を知り尽くした声楽家が振るとこんなに歌いやすいんだと実感させられる指揮でした。岡ア先生の指揮が「歌わざるを得ない指揮」だとすると、小野先生のは「歌いたくなる指揮」「思わず歌ってしまう指揮」なのです。
このときの合同ステージの曲は團伊玖磨作曲の「海上の道」でした。小野先生は、初めての練習のとき「ぼくは今回の演奏会で、この曲にこだわるからね。」と言って組曲の3曲目「夜の海」から練習を始めました。先生がこだわったのはこの曲を歌う合唱団の声でした。ゆったりとたゆとう夜の海を表現するための深い発声、飛び出したり陥没したりしない統一された母音の音色、海の広大さをイメージさせる大きなフレーズ作りなどです。
曲の表現のためにそれを歌う合唱団の声そのものから作っていくといういかにも声楽家らしい小野先生のアプローチの仕方に、岡ア先生とは全く方向性の違う、しかしやはり非常に魅力的な音楽性を感じました。 |
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音楽 一期一会 12 (小野 浩資A ) 2006. 4. 2 |
ジョイント・コンサートのプログラムでは、小野先生の指揮する両団合同演奏の「海上の道」が最終ステージだったので、アンコールも先生に指揮していただこうということになりました。アンコールは佐藤真作曲の「土の歌」から「大地讃頌」でした。團伊玖磨の「海上の道」の後になぜ佐藤真の「大地讃頌」?と思われるかもしれません。それはコンサートの最初、東北大・宮教大それぞれの演奏に入る前にオープニングとして、両大学の学生指揮者の指揮で、佐藤真作曲の「蔵王」から「蔵王賛歌」と「早春」を両団合同で歌ったので、その流れを受けたかたちで「大地讃頌」になったのです。
小野先生はアンコールは学生指揮でやった方がいいとおっしゃったようですが、「どちらの大学の学生指揮者が振るかでなかなか決まらないので、ぜひ先生お願いします。」と頼み込まれて引き受けてくださったようです。
大地讃頌の練習のときのことです。曲の歌いだしのソプラノの声について言われました。
「中学校とか高校とかの校内合唱コンクールの審査員に呼ばれると、この曲は嫌というほど聞かされるんだけど、だいたい歌いだしのソプラノのワンフレーズを聴いただけで上手い下手が予想できちゃうんだよね。そして、その予想はほとんど外れないんだ。」
「メロディーは次第に下がってくるんだけど、上の響きのまま大事に降りてきてね。ドテーッと落ちた響きで歌ったら、それでもうアウトだからね。」
男声にも注文が出ました。
「大地のふところに〜という部分は、男声とくにテノールなんかには一番出しやすい音域だし、何気なく声が出てしまうところだけど、女声はかなり低い音域まで下りてくるから、バランスを考えて歌ってよ。ベースは、ふところの「こ」でテノールと同じ音になるんだから、その音だけ飛び出して大きくならないように。こんなところで女声のメロディーをかき消すような大きな声で歌っても、かえって音楽が貧相に聞こえるだけだからね。
」
18小節目「土に感謝せよ」の部分では、次のようなことをおっしゃいました。
「合唱は最後にクレッシェンドするのと、ディミヌエンドするのとどちらも考えられるけど、クレッシェンドして入ってくるピアノとうまく主役交代するためにも、合唱はディミヌエンドしたいんだ。」
エンディングの「母なる大地を ああ」の部分では、
「ああ のところだけを張り上げると安っぽい歌になるから、 一回目は ああ をぶつけないで、大地をああ とレガートにつなげて歌ってよ。」
「まあ、一番最後の ああ は諸君も声を張りたいだろうから思いっきり歌っていいけど・・・。」
と、最後だけはアンコールを華々しく歌い上げたい私たち学生に譲歩してくださいました。
中学校や高校の校内合唱コンクールでもさんざん歌われ、もはや垢にまみれた印象さえあった「大地讃頌」でしたが、小野先生の指揮で歌うと、こんなにすばらしい曲だったのかとあらためて感じました。小野先生のつくる音楽は、常に様式がしっかりとしていて品がありました。 |
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音楽 一期一会 13 (小野 浩資B ) 2006.4. 8 |
ジョイント・コンサートに引き続き、その年の宮教大混声合唱団定演の客演指揮も小野先生でした。先生に指揮していただいた曲は、J.S.バッハのモテット第3番
「 Jesu,mine Freude イエスは我が喜び 」 でした。
小野先生は、私が大学に入学する少し前までドイツに留学していました。モテット第3番は、ドイツ留学中にヘルムート・リリングの前で、ゲヒンゲン聖歌隊を指揮した思い出の曲で、小野先生の十八番だったのだそうです。
私にとってモテット第3番は、初めて歌うバッハで、初めて歌うドイツ語の曲でした。もちろん私もバッハの名前は知っていましたが、それは音楽史に出てくる有名な作曲家として知っているだけで、バッハの曲は歌ったことがありませんでしたし、モテットについては聴いたこともなく、その存在さえ知りませんでした。いざ、音取りが始まっても音はものすごく取りにくいし、メリスマはさっぱり歌えないし、ドイツ語は発音もよく分からないし、とにかく厄介な難しい曲としか感じられませんでした。そうやってモテット3番というものすごい怪物(私の印象としてはとてつもなく巨大な怪物のように感じました)と格闘しているうちに小野先生の1回目の練習になりました。
小野先生は1曲目のコラールから練習を始めました。小野先生は合唱団のドイツ語の発音を丁寧に直していきました。
「Jesu は、イエーズじゃなくて、ほとんどイーズに聞こえるくらいなんだ。」
「Freude の最後のデはあいまいな母音なので、発音を深くしてぼかして、日本語のデにならないように。」
合唱団の発音がそろってくると、今まで何となく決まらなかったハーモニーまでピシッと決まるようになり、俄然バッハらしくなったような気がしました。その後、演奏会までの練習で、小野先生は合唱団にバッハの歌い方を基礎から教えてくださいました。先生の言うことを吸収し、練習のたびに合唱団がうまくなるのを、中で歌っている私も感じました。それにつれて、最初は怪物のように感じていたモテット第3番がだんだん好きになっていきました。
ドイツ語の歌の中での発音の仕方、子音や母音の取り扱いの細かなニュアンス、メリスマの歌い方、フーガのテーマの部分とそれ以外の部分の歌い方や、アンサンブルの留意点など、その後バッハを歌う上で役に立つ数多くの知識を、私はこのモテット第3番の練習を通して小野先生に教わりました。
宮教大混声合唱団は、定期演奏会で非常に良い演奏をしたと思います。演奏会を聴いた多くの人から「バッハを歌う合唱団の声が全然違っていた」「本当にハモるってこういうことなんだと感じさせられた」といった感想を聞きました。
小野先生はいつも、合唱団を育て、合唱団の持つポテンシャルを最高に引き上げて、合唱団といっしょに音楽の高みを目指そうとしていたように思います。 |
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音楽 一期一会 14 (声楽) 2006. 4.15 |
大学2年生になった私は、音楽の教科専門科目を履修することにしました。当時、宮城教育大学は科目の選択が自由で、原則的にどの課程の学生でも、どの教科専門科目を履修してもよいことになっていました。私は、宮教大の入試を文系で受験しましたし、自分としては国語を専門にして、卒業するときは(自分が岩手の生まれということもあり)宮澤賢治か石川啄木で卒業論文を書こうと考えていました。でも、合唱団に入ったことだし、せっかく文系の学生でも音楽の専門科目を履修できることになっているんだからこれ生かさない手はないと思って、声楽の授業を受けることにしたのです。
講義要目を見ると、声楽は A から D までの4クラス開講しており、内容はそれぞれ、声楽Aが「古典イタリア歌曲を通して発声の基礎」、声楽Bが「ドイツ歌曲の歌唱研究」、声楽Cが「イタリア・フランス歌曲の研究」、そして声楽Dが「日本歌曲およびオペラ研究」となっていました。私は、合唱団以外で歌の個人的なレッスンなど受けたことがなかったので、当然のことながら声楽Aを選びました。
私が本格的な声楽のレッスンを受けたのはこの声楽Aが初めてで、先生は板橋健先生でした。また、最初に取り組んだ曲は、スカルラッティの 「 O cessate
di piagarmi (私を傷つけるのをやめるか)」でしたが、残念ながら、思い出してみても記念すべき1回目の授業のはっきりした記憶がありません。(もしかすると最初の授業はガイダンスのようなものだったかもしれません。)
O cessate di piagarmi を使って、歌う姿勢や呼吸法、発声やイタリア語の発音など、声楽の基礎を教えてもらったはずなのですが、これもあまり覚えていません。この曲のレッスンで、ただ一つ私が覚えているのは、板橋先生がブレスの仕方を教えるときに、「いい匂いを嗅ぐように、鼻から息を吸って」と言いながら、目と鼻の穴を大きく開いたのがとてもおかしかったことです。(大事なことは覚えていなくて、こういうくだらないことだけ覚えています。)
久しぶりにそのとき使った楽譜を取り出して見てみたら、初めて取り組んだイタリア語に苦労したらしく、イタリア語の下にところどころカタカナで発音が振り仮名してありました。かなり後になってから習った
Piacer d'amor には、歌詞のma cangio in lei l'amor のところに「まあ、勘定いらん 礼はもらう」とへんな語呂合わせまで書いてあって笑ってしまいました。
声楽Aで使った全音の「イタリア歌曲集1(中声用)」は、表紙がすっかりぼろぼろになっていますが、当時のなつかしい書き込みがある、私の大切な宝物です。 |
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音楽 一期一会 15 (音楽理論 と 本間 雅夫@ ) 2006. 4.22 |
大学2年生になって取った音楽の教科専門科目は声楽だけではありませんでした。なんと声楽のほかにソルフェージュ、管絃打楽器、音楽理論も履修することにしたのです。
ソルフェージュは、大学の合唱団に入るまではほとんど楽譜が読めませんでしたし、1年間合唱団で歌っていて読譜力がないことを痛感していたので取ることにしました。管絃打楽器は、難しそうな感じがして最初敬遠していたのですが、担当が打楽器奏者の鶴岡たみ子先生だったので、打楽器の奏法や指導法などは小学校に勤めることになったらすぐに役立つだろうと思って取ることにしました。音楽理論は、何も知らずにただ歌うより、理屈が分かって歌った方が楽しいだろうと思って取ることにしました。とにかく、時間割の空いているコマで取れるものは何でも取ってやろうという勢いで、時間割に音楽の専門科目を入れていきました。
ソルフェージュも、管絃打楽器もそれぞれ役に立つ授業だったと思いますが、私の音楽的なバックボーンを形成するのに一番大きな役割を果たしたと思われるのが音楽理論の授業です。
音楽理論と言うと漠然としていて何をやるのか分かりにくいのですが、実際の授業の内容は機能和声の基礎的な技法の勉強です。
機能和声と言ってもやはり分かりにくいですね。簡単に言うと「調性音楽の和音のつながり方の理論」が機能和声で、時代的にはハイドンあたりからベートーヴェンくらいまで(いわゆるクラシック・古典派)の音楽が対象になります。もっと具体的に言うと、ハイドンあたりからベートーヴェンくらいまでの時代のセンスでメロディーに和音を付けたり、逆に和音の連なりに合うメロディーを考えたりする勉強です。
この機能和声の授業の担当は本間雅夫先生でした。本間先生は音楽科の中でも特に怖そうな先生でした。でも、先生の授業は学生に本当に力をつけるためのきめ細かいものでした。この授業は受講できる学生の数が限られていて、毎年10名程度しか受講できません。それは、きめ細かい指導をする本間先生の授業システムの制約です。
この授業では毎回宿題(和声課題)が出て、学生はそれをやってその週のうちに本間先生の研究室のポストに入れておくことになっていました。先生は学生のやった課題全部に目を通し、添削指導をして次の授業で返してくれました。そして授業は、みんなの課題がよくできていれば先に進み、課題の出来が悪ければもう一度その部分の指導をするというものでした。(その年の学生の出来によって1年間の学習の進度が違うという徹底ぶりです。)
私はこの授業で本間先生に機能和声の基礎をきっちりと仕込まれました。 |
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音楽 一期一会 16 (音楽理論 と 本間 雅夫A ) 2006. 4.29 |
本間先生の音楽理論の授業は(音楽初心者の私にとっては)非常に難しい内容でしたが、いままで よく分からなかった音楽の仕組みが次第に解き明かされていく、とても面白い授業でした。「なるほどこうなっているんだ」とか「そうだったのか」と毎回何かしら発見や得るものがあり、知的好奇心が満足させられる楽しい授業でした。
今振り返ってみると、大学時代に取ったたくさんの授業の中で一番真剣に取り組んだのがこの音楽理論の授業だったように思います。でも、それは先生が厳しかったからでも、単位を取るために必死だったからでもなく、とにかく学ぶことが楽しくて、夢中になって勉強していたという感じです。木曜日の2コマ目が音楽理論の授業でしたが、毎週この時間が楽しみでした。
音楽理論を取ってよかったと実感するのは合唱団で歌っているときでした。そのとき合唱団で歌っている曲の中に、音楽理論で習ったばかりの和音の機能を見つけてうれしくなることが何度もありました。(その年の定期演奏会で歌ったバッハのモテット第3番にもありました。短調の曲の最後の和音によく現われる「ピカルディーの3度」です。バッハは機能和声によって曲を作っていたわけではないのですが、このピカルディーの3度の感覚は実感できました。)この授業を取ってから、合唱団で歌うときも自分の楽譜の見方がずいぶん変わったように思います。
本間先生は、いつもは授業中も厳しい口調で話すのですが、時々突然ポロッとひどくつまらない駄洒落を言ったりします。
機能和声の基本となる三和音は、階名のド・ミ・ソの形ですが、第三音(ミにあたる音)でその和音の性格が決まります。ところが、和声課題(ソプラノだけ決まっていてそのほかの声部を書くのがソプラノ課題、バスだけ決まっているのをバス課題といいます)を解くとき、間違ってこの第三音を抜かしてしまうことがあります。するとその部分が空虚な響き(空和音と呼んだりします)になってしまいます。そういった間違いをすると本間先生は、
「身(ミ)の入ってない音は書くな!」
と怒鳴ります。
また機能和声では属和音(ソ・シ・レ)のシの音は、主和音(ド・ミ・ソ)に進むとき必ずドの音につなげなければなりませんが、そこを間違うと、
「シの音はドに進むしかないんだ!このつながりはどうし(ド - シ)ようもないんだ。」
と言います。突然のことに学生がポカンとしていると、先生は
「つまらなくても笑うところだ。」
と笑いを強要します。私たち学生は思わず苦笑してしまいました。
後で音楽科の先輩に聞いてみると、それは本間先生が音楽理論の授業で毎年必ず言っている伝統的な駄洒落だということでした。 |
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音楽 一期一会 17 (音楽理論 と 本間 雅夫B ) 2006. 5. 6 |
機能和声は、西洋音楽の根本といっても過言ではありません。前に、機能和声は「古典派の時代の和音のつながりの理論」だと書きましたが、ルネサンス、バロック時代を経て古典派の時代までは機能和声が成立する過程であり、古典派以降、ロマン派からラヴェル、ドビュッシーを経てシェーンベルクやベルク、ウェーベルンなどの無調音楽、十二音技法への流れは機能和声の崩壊の過程と見ることができます。そういう見方をすると、西洋音楽の歴史は「機能和声の成立と崩壊の歴史」と言い換えることができるのです。
西洋音楽と言いましたが、クラシック音楽だけでなく、ポピュラーミュージックの世界も機能和声を抜きにしては考えられません。ポピュラーの世界でいうコード進行は機能和声を基にしています。コード進行の奇抜さや斬新さは、いかに機能和声から離れて自由になるかということであり、古典的な理論とは無関係に見えるポピュラーミュージックも、根底には機能和声の大きな流れがあるのです。
つまり、純邦楽や民族音楽を除いて、現在私たちが耳にするほとんどの音楽は、多かれ少なかれ機能和声と関連があるということです。
偉そうなことを書きましたが、私の説ではありません。これが音楽理論の授業を通して私が学んだことなのです。
本間先生に機能和声を学んでしばらくすると、私たちは機能和声の規則が窮屈に感じ始めました。「導音のシはかならずドの音に進まなければならない」から始まって、「連続5度はいけない」とか、「オーバーラップはいけない」とか、「Xの和音からWの和音につなげてはいけない」とか、とにかく規則だらけなので、その規則通りにやっていては平凡なつまらない音しか書けないと感じたのです。それで、学生が禁則を破って斬新な音を書こうとすると先生は言いました。
「俺は作曲を教えてるんじゃない。」
「まずは、機能和声のアカデミズムをきっちり身に付けろ。決まりを破って新しいことをしたかったら、まず決まりにしたがって完璧に書けるようになれ。」
「生半可な知識や技術で何か斬新なことをしようとしても、それは個性でもなんでもなく、ただの独りよがりだ。」
「機能和声をしっかりものにしたあと、それからどう離れていくかが個性だし、それが作曲だ。」
「機能和声は、音楽を見ていく時の物差しになる。まず、しっかりした物差しを持て。」
もちろん本間先生は上のようなことをいっぺんには言いませんでした。授業のいろいろな機会に、折に触れて私たち学生に言っていました。
機能和声を学んでから、私はそれを使っていろいろな編曲をしました。合唱団のための愛唱歌や、小学校に勤めてからは教材や学芸会の合奏曲なども編曲しました。恥ずかしながら、何曲か作曲のまねごともしています。実用的に機能和声は確かに役に立っているのですが、それとは別に、機能和声を「音楽を見る物差し」という概念で自分の中に位置づけることができたのは本間先生のおかげです。 機能和声をきっちりと仕込んでくれた本間先生に本当に感謝しています。 |
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音楽 一期一会 18 (オペラ「カヴァレリア・ルスティカーナ」@ ) 2006. 7. 1 |
7月に入りました。いつもですと、仙台オペラ協会の秋の本公演に向けてそろそろ合唱団の練習も本格化する頃です。ところが今年の本公演のオペラ「花言葉」(R.ロッセリーニ作曲)には合唱が使われていないので、出番がありません。今年は何年ぶりかで、仙台オペラ協会の本公演を観客として観ることになりそうです。
私が初めてオペラに出演することになったのは、大学の3年生のときでした。それまで、オペラは、出演はもちろんしたことがありませんでしたし、見たことも2回(大学に来てから見た仙台オペラ協会の公演)しかありませんでした。当時、宮教大混声合唱団顧問で、仙台オペラ協会代表だった小野先生から声がかかったのですが、宮教大混声全員ではなく、限られたメンバーにしか声がかからなかったので、そのメンバーの中にどうして私が選ばれたのか、経緯はよく分かりません。また、実際に声をかけられたときのことも、よく覚えていません。もしかすると合唱団の先輩で小野研究室に出入りしていたNさんかSさんに、「お前もオペラに出ることになったから、音取っておけよ。」と言われて、楽譜を渡されただけだったのかもしれません。
そのときの演目が「カヴァレリア・ルスティカーナ」と「修道女アンジェリカ」でした。「修道女アンジェリカ」は登場人物が全員女性で、男性はフィナーレの舞台裏でのコーラスにほんの少し加わるだけなので、文字通り舞台を踏んだ初めてのオペラは「カヴァレリア・ルスティカーナ」でした。
一番印象に残っているのは、キャスト・合唱団一堂に会しての初めての練習です。確か小松島の東北高校講堂で行われた練習でした。
それは私にとって、初めて客演指揮の星出豊先生の指揮で歌う稽古でした。しかしその時は、怖いと噂されていた星出先生(実際とても厳しい方ですが)の前で歌うことよりも、姉歯先生や布田先生など、仙台を代表するそうそうたるソリストが、キャストとして間近で歌っていることや、大泉勉先生が稽古ピアニストをしていることの方に緊張しました。
そして、初めてオペラの合唱は、今まで私が知っていたステージの上で並んで歌う合唱とは、全く違った世界でした。それは、お互いの声をよく聴き合ってとか、パート内で声を揃えてとか言った繊細な(悪く言うと重箱の隅をつつくようなちまちました)音楽作りではなく、舞台上のどんな場所にいても、どんな姿勢でも、動きながらでも、とにかく一人のソリストのように自分の自主性で自分のパートをしっかりと歌い、それが集まって結果的に合唱になるという、非常にダイナミックなものでした。それまで自分が持っていた合唱の概念と、オペラの合唱とのあまりの違いに非常に驚きました。 |
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音楽 一期一会 19 (オペラ「カヴァレリア・ルスティカーナ」A ) 2006. 7. 8 |
「カヴァレリア・ルスティカーナ」で初めてオペラというものを体験した私ですが、そのときは、まさかその後の人生、ずっとオペラに関わっていくことになるなどとは思ってもいませんでした。自分としては、宮教大混声合唱団の団員としての活動がメインで、オペラはあくまでもエキストラとしての活動であり、混声合唱団の歌い手として自分の音楽の幅を広げるための活動だと位置づけていました。
中学校3年で合唱と出会って以来、合唱を自分の音楽活動の中心としてきた私にとって、オペラの世界は馴染み難いものでした。オペラは何と言ってもソリスト(キャスト)が中心で、合唱は脇役、あるいはその他大勢的な扱いだし、「合唱」とは言うものの、村人や店のお客というような群集の(それぞれ気持ちや思惑の異なる個人個人の)歌声の集合体としての合唱という、それまで慣れ親しんでいた「合唱曲」とは似て非なるものを歌う違和感が付きまといました。その当時の私には、オペラの合唱の、パートとして音色やニュアンスの統一などの練習をしない合唱練習は信じられないものでした。パートとしてバラバラ、全体としてもバラバラな、ソリストの寄せ集めのような合唱には、合唱としての意味が見出せなかったのです。(当時の私の音楽的な見識の狭さ、合唱の捉え方の偏狭さゆえのことです。)だから、いくらオペラの合唱を歌っても、普段の宮教大混声の活動に生かせることはあまりないなあというのが実感でした。
しかし、その時は宮教大混声合唱団の活動に直接つながるものはなかったにせよ、オペラに関わることで私の音楽的な幅が大きく広がったことは確かです。
一番の収穫は、初めてオーケストラ伴奏で歌うという経験をしたことです。弦楽器のふくよかな音に包まれて歌う気持ち良さは言葉では言い表せません。同時に、オーケストラ伴奏で歌う難しさも経験しました。ピアノと違って音の立ち上がりが分かりにくいオーケストラでは、音を聴いて合わせようとすると必ずタイミングが遅れるのです。(歌っている方は遅れていると思わないのですが、指揮の星出先生から何度も「遅い!」「合唱団!遅れる!」と怒鳴られました。)耳に聞こえる音ではなく、指揮者の棒を見て(オーケストラの音とズレていると思っても)棒に合わせて歌うという、オーケストラ伴奏で歌うときの鉄則を初めて知りました。
また、オーケストラの音量につられて思わず大声で歌ってしまう経験もしました。オーケストラの大きな音が間近で鳴っているところで、普段練習したとおりのデュナーミクを守って歌うのは難しいものです。どうしてもオーケストラと張り合うように大声を出したくなるものなのですが、いくらがんばってもオーケストラの音にかなうはずもなく、たちまち声を嗄らしてしまうのが落ちです。子音をオーケストラの音の前に出すことを意識し、あとは自分の声を信じて普段どおりの発声と普段どおりの音量で、オーケストラに自分の声を乗せて歌うようにしなければならないのですが、それを体得するのはずっと後のことで、このときは若さと体力に任せて、オーケストラと張り合って無理やり大声を出していたように思います。 |
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音楽 一期一会 20 (オペラ「カヴァレリア・ルスティカーナ」B ) 2006. 7.15 |
私は、「カヴァレリア・ルスティカーナ」で初めてオペラというものを体験し、それまでの自分の音楽世界とのあまりの違いに大きなカルチャーショックを受けました。でも、宮教大混声合唱団の団員として、自分の音楽的な幅を広げる目的でオペラに参加した私が、どうしてその後ずっと現在に至るまでオペラに関わり続けているのでしょうか。それはたぶん、一つのものをみんなで作り上げていく過程が楽しいからだと思います。
「カヴァレリア・ルスティカーナ」を上演した当時の仙台オペラ協会は、オペラ好きな(オペラを勉強したい、やりたいという情熱に燃える)仲間が、小野先生を中心に自分たちの手でオペラを作り上げていくといった家内制手工業的(?)な雰囲気の団体でした。オペラ研究会として発足した団体の勉強会・ゼミとしての性格が強く残っていたのだと思います。だからオペラの合唱団も、プロの歌い手の団体の下請けとして合唱パートを受け持ったというのではなく、仲間の一員としてオペラ作りに関わったという感じが強かったのです。衣装もほとんど自前でしたし、メイクも地塗りだけでなく、シャドウやアイライン、鼻筋などもかなり自分で描いたような記憶があります。
初めて関わったのが、そういった手作りの感触が残っていた仙台オペラ協会の「カヴァレリア・ルスティカーナ」であり、一つの舞台をみんなで作り上げていく過程を肌で感じ、その楽しさを味わうことが出来たから、私はその後もオペラを続けているのではないかと思うのです。もともと、私が合唱を好きなのも、合唱がみんなで一つのものを作り上げるチームワークの象徴のようなものだったからであり、オペラもやはりそういった意味で好きなのだと思います。(だから、私はオペラをやるのは好きですが、観るのはそれほどでもありません。もちろんオペラ・マニアでもフリークでもありません。)
これはもちろん今だから分かることで、「カヴァレリア・ルスティカーナ」に取り組んでいる時は、とにかく初めてのオペラに無我夢中だっただけです。でも、めちゃくちゃ楽しかった。衣装を着け、メイクをして、普段の自分とは全く別の役になりきって舞台に乗るのがこんなに楽しいこととは知りませんでした。
ドーランを塗って化粧をすることが、最初はとても気持ち悪かったのですが、公演最終日には快感になっていました。なんか病み付きになってしまいそうで、心の中で密かに「自分にはそういう趣味があったのかなあ・・・」と思ったりしました。 |
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