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もの思いの帰り道

〜もの思いは放課後だけで終わりませんでした〜

作曲ということ                                              2006. 5. 9
 授業中、本間先生がおっしゃった言葉で、今でも忘れられない衝撃的な一言があります。

「機能和声に則って曲を作るんだったら、いくらメロディーをひねり出して新しい曲を作っても、それは機能和声という枠組みの中で編曲を繰り返しているに過ぎないんじゃないか。」

 ショックでした。音楽理論の授業を取ろうと思ったときの心の中には、行く行くは自分で作曲できるようになりたいという気持ちがないわけではありませんでした。また音楽理論の受講中も、機能和声をしっかり勉強していれば作曲できるようになると思っていました。
 いえ、正直に言えば機能和声だけで作曲できるとは思えませんでした。確かに、最初のうちはそれで作曲できるようになると思っていたのですが、勉強すればするほどそう思えなくなってきていました。
 実はそのときにはもう気が付いていたのです。習った機能和声をそのまま使って曲を作ったって、陳腐なありふれたものにしかならないだろうということに。
 また、そのときには違和感を感じていたのです。機能和声の時代以降の、ドビュッシーやシェーンベルク、ベルク、ウェーベルンのような新しい音楽を作ろうとしていた近・現代の作曲家の行った作曲と、いま巷に溢れている、たくさんの(自称を含む)作曲家たちの行う作曲とのギャップに。

 本間先生のその一言で、全てがつながって腑に落ちたような気がしました。本当の作曲は、機能和声に代わる新しい音の枠組みを創造し、それによって曲を作ることであり、いま 巷に溢れている 作曲と呼ばれるもののほとんどは、古い枠組みの中で繰り返されている編曲に過ぎない ・・・ そう考えると、いままで感じていたもやもやした疑念や違和感全てに納得がいくのです。ただ単に曲を作るという意味の作曲と、音の枠組みから創造する本当にクリエイティブな行為としての作曲は、同じ「作曲」という言葉を使って表されているけれども、まったく次元の違うものなのだということです。

 機能和声を習い始めのとき手が届きそうだと思っていた作曲が、先生の一言で遥か彼方へ飛び去ってしまったように感じました。「編曲」はもう少し勉強すればできるようになるけれども、本当に創造的な意味での「作曲」は人に教わってできるようになるものではないし、そう簡単に手が届くものでもないと思いました。 

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