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もの思いの帰り道

〜もの思いは放課後だけで終わりませんでした〜

自覚                                                    2006. 6.17
 西洋音楽が、「骨の髄から魂の底から浸りきれる音楽」にはならないかもしれないという不安を覚えるようになったのは最近のことです。前々から漠然とそんなことを感じていたものの、今まで突き詰めて考えたことはありませんでした。この「音楽の共通性と地域性」というエッセイを書き始めて初めて正面から向き合ったという感じです。

 西洋音楽について不安を感じるきっかけになったものの一つが(音楽の共通性と地域性Aにも書きましたが)、間宮芳生の「合唱のためのコンポジションT」を歌ったことです。初めて歌う曲のはずなのに、何なんだこの安心感は?・・・ 私にとってかなり衝撃的な経験でした。
 もう一つは、先日のワイルド・ウーマンのコンサートでのことです。
 コンサートの最中、ある曲の間奏で、ワイルド・ウーマンのメンバー最年長のエラ・ピーチズ・ギャレット(もう80歳近いおばあちゃんです)が曲に合わせて踊り出しました。踊ったと言っても振り付けされているダンスをしたのではなく、リズムに合わせて腕を振り、身体を揺すったと言った方が正しいかも知れません。私はその踊りの風情が、三線に合わせて踊り出す沖縄の歳取ったおばあちゃんにそっくりだと感じました。エラも、沖縄のおばあちゃんも、(ジャズと沖縄民謡という違いはありますが)音楽に浸りきって、思わず身体が動いてしまうというふうなのです。私は歳を取ってだんだん身体の自由が利かなくなってきたとき、西洋音楽で思わず踊り出すでしょうか?ワルツで?メヌエットで?ガヴォットで?・・・ そうなるとは思えません。

 人間、ある程度歳を取ってくると、その人間本来の地金が出てくるように思います。若くてエネルギーに満ち溢れているときは、そのエネルギーの力で、自分の頭で考えた自分像の通りに身体や心をコントロールすることが出来ます。ところがそのエネルギーが衰えてくるとコントロールが行き届かなくなり、頭で考えた自分像とは異なった本来の自分、生まれついての自分が顔を出すようになります。歳を取って涙もろくなったり、頑固になったり、演歌や民謡に惹かれるようになったりするというのは、そういうことではないかと思います。

 だから、私の感じる不安は、西洋音楽が「骨の髄から魂の底から浸りきれる音楽」にはならないかもしれない・・・ ではなくて、慣れ親しんだはずの西洋音楽が、これからどんどん「骨の髄から魂の底から浸りきれる音楽」ではなくなっていく・・・ ということかもしれません。

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