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もの思いの帰り道

〜もの思いは放課後だけで終わりませんでした〜

ケテルビー再考                         2010.10.10
 学芸会の劇のBGMとして使うため「ペルシャの市場にて」が入ったCDを買って、何十年かぶりにじっくりと聴きました。小学校で聴いたものには合唱が入っていませんでしたが、買ったCDの演奏は合唱が入ったヴァージョンでした。初めて聴いたとき以来、おどろおどろしい曲だというイメージがあったのに、久しぶりに聴いてみると「意外とこじんまりしたスッキリした曲だなあ」と感じました。

 そのCDは「ケテルビー作品集」で、「ペルシャの市場にて」のほかにも、「修道院の庭で」とか「中国の寺院の庭で」「エジプトの秘境で」など、似たようなタイトルの曲が入っています。それらは、タイトルだけでなく、曲の作りもよく似ています。
 「修道院の庭で」は、最初に小鳥の声をフューチャーした明るくのどかな雰囲気のメロディーが流れます。それが愁いを帯びた美しいメロディーに変わりますが、また元の明るいのどかなメロディーが戻ってきます。修道院の中からは、修道僧たちが歌う聖歌も聞こえてきます。明るくのどかなメロディー、愁いを帯びたメロディー、聖歌の3つが組み合わされて曲が作られています。
 「中国の寺院の庭で」は、中国の寺院から聞こえる祈りの声、広い中国の大地を思わせるような牧歌的なメロディー、チャイナタウンの喧騒の3つから成っています。
 「エジプトの秘境で」にいたっては、ペルシャ風のメロディーがエジプト風のものに置き換わっただけで、「ペルシャの市場にて」と双子のように瓜二つです。
 これらの曲に共通して言えるのは、いかにもそれらしいメロディーが箱庭的に小ぎれいに並べられ、情景が目に浮かぶように構成された分かりやすい曲だということです。「ペルシャの市場にて」だけを聴いていたときには感じませんでしたが、こうして何曲か並べて聴いてみると、それぞれ観光地の絵葉書を見ているような感じがしてきます。(きれいに整っていて美しい風景なんだけれども、どぎつくて何だか造りものっぽいあの感じです。)

 ケテルビーは音楽的な才能が豊かな人だったようです。さまざまな楽器を上手に演奏できたし、作曲・編曲にも優れていて、音楽プロデューサーとしても成功しました。きっと、メロディーを作り出す能力が高かったので、聴衆が思い描く異国のエキゾチックなメロディーを、聴衆の望み通りに書くことができたのでしょう。その手際があまりにも鮮やかだったので、音楽が「観光地の絵葉書」になってしまったのかもしれません。

 いま聴いても「ペルシャの市場にて」は別格です。それはたぶん、小学生の私が、そのときの感性で強く何かを感じて、それが心に焼き付いたからでしょう。もし、あのとき、「ペルシャの市場にて」ではなくて、「中国の寺院の庭で」や「エジプトの秘境で」を聴いていたら、それが別格の曲にになっていたのでしょうか・・・。いいえ、そんな「もし」は無意味です。当時の感性にはもう戻れないし、何十年経っても、やはり私は「ペルシャの市場にて」が好きなのです。
 ただ、さまざまな音楽経験を経て「ペルシャの市場にて」を分析的に聴けるようになった(聴いてしまう)現在の自分がうれしくもあり、寂しくもあり、何だか複雑な気分です。

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