もの思いの放課後

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あいうえ音楽家名鑑 か (カラヤン)                          2007. 5.12
 私が音楽というものに興味を持ち始めた中学生の頃、クラシック界では帝王カラヤンが君臨していました。私の年代ではカラヤンをはずしてクラシック音楽は語れません。今回はヘルベルト・フォン・カラヤンについて書きます。
 別のエッセイにも書きましたが、私が音楽に興味を持つようになったきっかけは地元出身のフォークグループN.S.P の歌を聴くようになったことです。フォークソングから音楽に興味を持ち始めたわけですが、一度興味を持つと、ジャンルにとらわれずいろいろな音楽を聴くようになるものです。洋楽も聴くようになるし、ロックにもクラシックにも興味が湧きました。カーペンターズは普通に好きでしたし、ビートルズも聴くようになりました。ロックではクイーンよりもディープ・パープルが好きでした。
 クラシックで初めて買ったレコードは確かドヴォルザークの「新世界より」でした。カラヤンのではなく、バーンスタインのです。次に買ったのはチャイコフスキーのピアノ協奏曲第1番ですが、これはピアノがヴァン・クライバーンで、指揮がキリル・コンドラシンでした。あと覚えているのはモーツァルトの「ジュピター」とシューベルトの「未完成」、ガーシュインの「ラプソディー・イン・ブルー」「パリのアメリカ人」などのレコードがあったことです。シューベルトとモーツァルトはカール・ベームの指揮だったし、ガーシュインは確かバーンスタインだったはずです。そうです、カラヤンのレコードはなかったのです。
 私はひねくれていたのか、カラヤンがそんなに有名でみんなが奉っているのなら、自分はそうでないものを選ぼうと思っていました。何だかカラヤンのレコードを買うことは世間の風潮に乗るようで嫌だったのです。そこで、ヨーロッパのものだったらカール・ベームのを、アメリカのものだったらバーンスタインを(ドヴォルザークはアメリカの音楽ではないかもしれませんが、「新世界より」はアメリカの音楽に影響を受けて作曲したのだから)とそれなりに考えて買っていたようです。ちなみにピアノ協奏曲は、指揮者ではなくピアニストのヴァン・クライバーン(第1回チャイコフスキーコンクール優勝)で選びました。
 そのときは、カラヤンのレコードを聴いて嫌いだったというわけではなく、ただ単に「猫も杓子もみんなカラヤン」という流れに逆らいたかっただけです。でも、大学で合唱団に入り、それをきっかけに音楽の勉強を始めて、クラシックのレコードやCD をたくさん買うようになっても、やはりカラヤンのものは買いませんでした。どうやら私は筋金入りのひねくれ者だったようです。
 一度だけ、カラヤンとベルリン・フィルが演奏したチャイコフスキーの交響曲「悲愴」のCDを買ったことがあります。悲愴を聴いてみようとしたときに読んだレコード評でべた褒めだったからです。ところが聴いてみて、私はいいと思いませんでした。世界一のヴィルトーゾ軍団のベルリン・フィルの音も、よく鳴っているんだろうなあと思いながらもあまり美しいともアンサンブルがいいとも感じられなかったし、カラヤンの音楽もこれといって面白くなかったからです。そのCDは早々に売り払ってしまいました。その時初めて、それまで半分意地になって世間の風潮に逆らいカラヤンを買わなかったことは正解だったのかもしれないなと思いました。
 以来カラヤンのCDは買ったことがありません。

あいうえ音楽家名鑑 き (木下保)                           2008. 8.24

 現在、(亡くなってもう25年以上経つので)木下保の名を知っている人はあまり多くないかも知れません。グローブ音楽辞典では、木下保は「声楽家(テノール)、声楽・合唱指導者」ということになっています。けれども、私が木下保を知ったのは、信時潔作曲の歌曲集「沙羅」の編曲者としてでした。信時潔が作曲した「沙羅」は、もともと独唱用の歌曲集だったのですが、それを木下保が混声合唱組曲として編曲していたのです。

 私が大学の合唱団に入って初めての定期演奏会で、混声合唱組曲「沙羅」を歌いました。このときは4ステージ全てが日本語の曲という演奏会でしたが、第1ステージが「沙羅」でした。(第1ステージは、当時副指揮者のNさんが指揮をしました。)
 定期演奏会で歌うので、Nさんが持っていた東京放送合唱団の歌った「沙羅」のレコードを貸してもらって聴きました。このレコードは2枚組でしたが、そのうちの1枚半にリハーサルの様子が録音されていて、指揮者のさまざまな要求や指示のもと曲が仕上がっていく過程が克明に分かるのです。その指揮者が木下保でした。
 木下保は作曲者の信時潔に直接教えを受けたということでしたし、作詩の清水重道とも関わりがあったようですが、レコードでリハーサルの様子を聴くと、まさに「沙羅」の隅々まで知り尽くしているという印象を受けました。合唱団に対して、曲の明確なイメージを伝え、言葉の扱いなど細かいところまで指示を出していました。
 第1曲の「丹澤」では、「枯れ笹を表すために歌い出しの「か」の子音を乾いた感じの音にするように」とか、尾根という言葉の歌い方で、「おおね(大根)にならないように」とか、曲の最後「ひとりという言葉には人間の寂しさ、人生の寂しさが表れるように歌う」など、当たり前と言えば当たり前の指示なのですが、ものすごい説得力をもって響きました。
 第2曲の「あずまやの」のピアノ伴奏に対して「一見するとシューベルトのような16分音符の分散和音だけれども、太棹三味線の音で弾くように」というあたりなどは、きっと作曲者の信時潔が木下保にそう言っていたのだろうと思われました。
 中には第3曲「北秋の」の「名づけてよ君という部分をクレッシェンドして歌い切る」とか、第5曲の「鴉」の「ついばむという言葉は語感を生かすためにスタッカートにしない」とか、私としては首を傾げたくなる指示もありました。また、第7曲「占ふと」で歌われているのは女ではなく、男だ(詩の中に「くしけずる」とか「黒髪」とか出てくるので女の詩かと思われるかもしれないが、昔は男も髪が長かった)と説明していましたが、私はやはり女の詩だと考えるのが自然ではないか?と納得がいきませんでした。
 そのほかの木下保の指示はほとんど忘れてしまいましたが、どれも確固たる信念を持って、自分の曲に対する明確なイメージを具現化する言葉だったような気がします。
 
 指示そのものは、必ずしも納得できるものばかりではありませんでしたが、指揮者は曲を仕上げていくときにこうあるべきだというひとつのモデル像として木下保は私の心に焼きつきました。


あいうえ音楽家名鑑 く (クリュイタンス)                       2010. 8.28
 私がクリュイタンスと出会ったのは、大学1年生のとき、1枚のレコードを通してでした。
 大学1年の12月、東北学院大学混声合唱団ヒムネン・コールの定演で初めて聴いたフォーレのレクイエムのあまりの美しさに衝撃を受けた私は、そのレコードを(当時はCDよりもレコードが一般的だったので)買おうと思いました。ところが、フォーレのレクイエムは名曲だけあってレコードが何種類も出ており、クラシックに無知だった当時の私には、どれを買ったらいいかさっぱり見当が付きません。何枚か買って聴き比べればいいのでしょうが、貧乏学生ゆえ、そんな金銭的余裕はありません。
 そこで大学の合唱団で同期のT(高校のオーケストラでチェロを弾いていたクラシック通)に聞いてみました。すると、T は

「クリュイタンスはいいですよ。クリュイタンス最高!」
と、べた褒めなのです。私は、 T お薦めのレコードを買いました。クリュイタンス指揮、パリ音楽院管弦楽団、ソプラノ・ソロはヴィクトリア・デ・ロス・アンヘレス、バリトン・ソロはディートリッヒ・フィッシャー=ディースカウ、合唱はエリザベート・ブラッスール合唱団の1962年盤です。このレコードがクリュイタンスとの出会いでした。

 レコードで聴いてあらためてフォーレのレクイエムの美しさに感服し、この曲がますます好きになりました。それからかなり長い間にわたってこのクリュイタンス盤を聴き続けていました。
 あるとき、やはり名盤の誉れ高いミッシェル・コルボの盤を聴きましたが、なんだかあっさりしすぎていて、物足りない感じがしました。4曲目のピエ・イエズもボーイ・ソプラノが歌っていて、非常に清楚な演奏です。コルボ盤は、このピエ・イエズに象徴されるように全体に禁欲的な物静かな演奏だと感じました。
 クリュイタンス盤は全体に、非常に人間くさい演奏です。エリザベート・ブラッスール合唱団がどういう合唱団なのか分かりません(レコード解説にも書いてありません)が、歌心が感じられる演奏です。技術的にあれっ?と思うところも散見されますが、それを補って余りあるほど表現しようとする意志が見られます。特にテノールは、入祭唱とKyrie や Agnus Dei のパートソロなどで声のばらつきが見られるのですが、「こう歌いたいんだ!」という歌い手一人一人の思いがほとばしった結果のように感じます。(クリュイタンスがそのように歌わせているのではないにせよ、そのような演奏を許さない指揮者だったら、合唱団はこう歌えなかったはずです。)
 ロス・アンヘレスのピエ・イエズも、とても温かくて人間的な歌声でイエスへの祈りが切々と歌われます。いろいろな人生を背負った生身の人間が、それぞれの思いを込めて一生懸命祈っているようなクリュイタンス盤の演奏が私は大好きです。
 その後、いろいろなレコード・CD でフォーレのレクイエムを聴きましたが、クリュイタンス盤を越える演奏にはお目にかかっていません。

 そんなわけで、私の中でクリュイタンスへの信頼は絶対的となり、ラペルやドビュッシーなどフランスもののレコードを買うときは、迷わずクリュイタンスのものを選ぶようになりました。

※音楽一期一会 10 付属の「もの思いの合間に」に加筆・修正して転載

あいうえ音楽家名鑑 け (ケテルビー)                         2010. 9.11
 作曲家アルバート・W・ケテルビーの名を聞いてすぐに分かる人は、そんなに多くはないと思います。しかし、「ペルシャの市場にて」という曲を挙げれば、逆に知らない人の方が少ないのではないかと思います。私が小学生だった頃は、鑑賞曲として音楽の教科書に載っていたので、40代以上の方なら、ほとんどみなさんご存知なのではないでしょうか。

 私は「ペルシャの市場にて」を小学校の音楽の時間に初めて聴きました。はっきり覚えていませんが、3年生か、4年生のときだったのではないかと思います。
 当時の私にとってペルシャ(現在のイラン)は、とんでもなく遠く、まるで別世界だったので、「アラジンと魔法のランプ」や「アリババと40人の盗賊」の登場人物や舞台となる町並みを想像して聴きました。
 曲は、ラクダの隊商が鈴を鳴らしながら近づいてくる描写から始まり、エキゾチックな旋律で賑やかな市場の風景が描写されます。途中で、それまでとは全く趣の違う「王女の行列」の優雅な旋律が流れます。しかし、それをかき消すように、蛇使いの笛の音、物売りの呼び声など、市場のさまざまな音が入り乱れます。そして、ラクダの隊商や「王女の行列」が市場から遠ざかって行って曲は終わります。
 初めて聴く私にとって、かなり衝撃的な曲でした。特に「ドードードーラソ ラソミーミー」
で始まるエキゾチックなフレーズは耳に残りました。(この曲の顔のような旋律だと思っています。)小学校で、さまざまな鑑賞曲を聴いたはずですが、ほかの曲はほとんど記憶にありません。ところが、この「ペルシャの市場にて」だけは、そのときの音楽室の様子や教科書に描かれていた挿絵などとともに鮮明に覚えています。「ペルシャの市場にて」は私のお気に入りの1曲になりました。

 「ペルシャの市場にて」の音楽は強烈に心に焼きついたのに、当時は作曲者が誰かなどということには全く関心がありませんでした。正直に言うと、「ペルシャの市場にて」の作曲者について関心を持ったのはずっと後のことで、小学校に就職してからです。ある年の学芸会で、劇のBGMとして使うためにこの曲が入ったCDを買おうとして調べました。そのとき初めて作曲者ケテルビーの名を知ったのです。
 名前を知ったのは遅かったのですが、ケテルビーは、小学校時代に唯一記憶に残った管弦楽曲「ペルシャの市場にて」の作曲者として、私にとって大切な作曲家です。

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あいうえ音楽家名鑑 こ (小林研一郎)                         2010.10.9

 初めて小林研一郎の指揮を見たのは大学3年か4年のことだったと思います。読売日響か日本フィルの仙台公演だったと思いますが、曲目を含めて細かいところは覚えていません。(メインの曲はベートーヴェンだったような気がします。)
 当時私は宮教大混声合唱団の学生指揮者でした。大学に入るまで、フォークギターを弾く以外にこれといった音楽経験がなかったので、大学で合唱団に入ってからは、音楽経験を増やすために暇さえあればできるだけ演奏会を聴きに行くことにしていました。それは学生指揮者になってからも変わりませんでした。(指揮者になってから、さらにそう心掛けていました。)小林研一郎の演奏会を聴きに行ったのも、そんな演奏会通いの一環でした。
 小林研一郎については、小澤征爾、岩城宏之に次ぐ世代の若手指揮者(年齢は当時40代だったはずですが、指揮者としては十分若手)で、ブダペスト国際指揮者コンクールで優勝したこと、ハンガリーを中心に活躍していることくらいしか知りませんでした。生はもちろんレコードでも演奏を聴いたことはありませんでした。

 小林研一郎の指揮を見て思ったのは、「ずいぶん気合の入った人だなあ」ということです。入場からして、足早にものすごい勢いで入ってきました。指揮ぶりもエネルギッシュでしたし、演奏の途中でも「ウー」とも「フー」ともつかない唸り声が聞こえてきます。グレン・グールドがピアノを弾きながら唸るということは知っていましたが、指揮者でこんなに唸る人を生で見た(聴いた?)のは初めてでした。
 でも、さらに驚いたのは、演奏中にビオラに向かって「もっと下さい」とか、ヴァイオリンに向かって「歌って!」と言葉で指示していたことです。(私はかなり前の席に座っていたこともあって、けっこうはっきりと聞こえてきました。)目から鱗が落ちました。
 学生指揮者の私は合唱団の前に立って、拙い指揮の技術で音楽のニュアンスを伝えようといつも悪戦苦闘していました。言葉を使わないで、音楽の表情を演奏者にどう伝えるかそれが指揮者の命題だと思っていました。「何だ、言葉で言うのありか!」私は「目から鱗」では言い足りないほど衝撃を受けました。

 その時の演奏がどうだったか覚えていないし、その後の小林研一郎にもあまり興味をもちませんでしたが、その演奏会は学生指揮者の私に大きな変化をもたらしました。「指揮だけで表せなかったら、言葉で言えばいいじゃないか」そう思ったら、何だか肩の力が抜けて、とても気が楽になりました。


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