もの思いの放課後

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悲劇@                                               2005. 7.16
 仙台オペラ協会の「椿姫」の練習は、いよいよ来週から立ち稽古に入ります。私は出演者として、演出の恵川先生が今年の「椿姫」でどんなドラマをつくっていくのかとても楽しみです。(私は恵川先生の奇をてらわない自然な演出 ・ すべての役を聖人君子でもなければ、極悪人でもない一人のリアルな人間として描いていく演出が好きです。)

 さて、「椿姫」はすべてのオペラの中でも最も有名な悲劇のうちの一つですが、ここでは、これから何回かにわたって、「椿姫」も含め、悲劇や悲劇の結末について、私の思うところを書いていくつもりです。
 「椿姫」の前に、「サーカスのライオン」(川村たかし作)という物語のことから話を始めようと思います。この物語は東京書籍の小学校国語の教科書にも載っているので、読んだ(習った)方も多いのではないかと思いますが、あらすじを書いておきます。

 サーカスのライオンじんざは、年老いていた。昔は一座の花形だったじんざも、今ではステージで決まりきった火の輪くぐりの芸をするほかは、毎日寝てばかりいた。そんなじんざの楽しみは散歩をすることだった。
 ある夜、散歩の途中でじんざは一人の男の子と知り合いになった。男の子は、元気のないライオンを心配し、毎日サーカス小屋のライオンを訪ねて来るようになった。男の子の話に励まされ、じんざはもう一度若い頃のようなすばらしい芸を見せようと決心する。
 男の子がサーカスを見に来る前の晩、男の子の住むアパートが火事になった。じんざは自分の檻を破ってアパートに駆けつけた。男の子を助けようと夢中でアパートに飛び込んだが、火の勢いは強く、じんざは男の子をはしご車の消防士に渡すのが精一杯で、自分は炎に飲み込まれてしまった。
 翌日のサーカス小屋では、ライオンのいない火の輪くぐりに観客の拍手が鳴りやまなかった。

 この「サーカスのライオン」は、ライオンが死んでしまう紛れもない悲劇なのですが、私は「悲劇のハッピーエンド」だと思います。(「悲劇のハッピーエンド」とは言葉として矛盾する変な言い方ですが、ほかに適切な言い方が見つからないので使います。)私は、「椿姫」も同じく「悲劇のハッピーエンド」だと思っています。 

悲劇A                                           2005. 7.18
 「サーカスのライオン」は紛れもない悲劇なのにハッピーエンドだというのは、物語の別の結末を考えてみてのことです。物語の別の結末を考えることは、歴史に「もしも」を持ち出すのと同じで意味のないことかもしれません。でも、悲しい結末を迎える物語では、「もし別の道を選んでいたならば、こうはならなかったのに・・・」と考えてしまうのが人情です。また、物語は歴史ではなく、あくまでもフィクションなので、別の結末を考えることも物語をより深くとらえるための一つの方法だと思ってお付き合いください。

 「サーカスのライオン」で
、男の子の住むアパートが火事にならなかったときのことを考えてみます。次の日、男の子はサーカスを見に来るでしょう。その時は、じんざは若いときと同じように、すばらしい火の輪くぐりの芸を披露することができるかもしれません。しかし、その日の興行が終わって日常に戻ったとき、老ライオンはいつまで若いときと同じ芸を続けることができるでしょうか。3つくぐっていた火の輪が2つになり1つになり、やがてステージに立てなくなる日が必ずやってきます。しかも、それは遠い未来のことではなく、明日のことかもしれません。サーカス小屋で生きてきたライオンにとって、ステージに立てなくなるということは、自分の存在理由を失うことと同義です。これ以上の悲劇があるでしょうか。
 火事が起きて、じんざが男の子を助け、自分も無事に戻ってきたとしても、待っている結末は同じです。じんざは、そのまま生きていたならば、惨めな悲しい結末を避けることができなかったのです。そう考えると、自分の命と引き換えに男の子の命を救ったじんざは、自分に残された命を最もすばらしい形で使い切ったのではないかと思えるのです。
 「サーカスのライオン」はじんざの死で終わる悲劇には違いありません。けれども、サーカスの花形として生きてきたじんざにとって、それは人生最後の花道を男の子を救うことで飾った最高のハッピーエンドだと思うのです。

悲劇B                                               2005. 7.21
 「椿姫」が「サーカスのライオン」と同じく「悲劇のハッピーエンド」だというのは、やはり物語の別の結末を考えてみてのことです。
 「椿姫」の別の結末を考えるときに念頭に置いておかなければならないのは、ヒロインのヴィオレッタが肺結核を病んでいたということです。これはヴィオレッタの命が長くないということを暗示する(明言かもしれません)重要な設定だと思います。年は若いヴィオレッタですが、じんざと同じで先の短い、限定された命なのです。

 まずはじめにヴィオレッタがアルフレードとめぐり会わなかったことを考えてみます。(これが、いろいろな結末を考えてみるときの基準になります。)アルフレードとめぐり会わなければ、ヴィオレッタはそのままパリの社交界で享楽的な生活を続けていたでしょう。しかし、生き馬の目を抜くパリの社交界で、身体を壊したヴィオレッタがいつまでも花形でいられるわけがありません。身体の衰えとともに落ち目になり、見限られ、惨めで孤独な死を迎えることになったでしょう。
 では、ジェルモンが訪れることなく、アルフレードと田舎暮らしを続けることができたならどうでしょうか。たぶん、これがヴィオレッタにとって一番幸せな生活だったでしょう。田舎暮らしで少しは命を存えることができたかもしれません。しかし、やはり死を避けることはできず、ヴィオレッタは愛するアルフレードに看取られて最期を迎えたでしょう。(でも、これだと「椿姫」は何の葛藤もなく1幕で終わる純愛物語になってしまいます。)
 さて、オペラの台本どおりの結末はどうでしょうか。死を待つばかりのヴィオレッタのもとへ、アルフレードは駆けつけてくれました。ジェルモンも来てヴィオレッタを娘と呼んでくれたし、息子とヴィオレッタの間を引き裂いたことを悔いています。アンニーナ、グランヴィル、ジェルモン、そして愛するアルフレードに看取られてヴィオレッタは死んでいきます。ぎりぎりで間に合ったのです。ジェルモンとの約束でアルフレードと別れて辛く悲しい思いもしましたが、ヴィオレッタの人生の決算は最後の最後に帳尻が合ったのです。
 最初にも書いたように、、ヴィオレッタの死は避けられないものでした。だから死の瞬間にどれだけヴィオレッタの心が満たされていたかというところがポイントになります。そう考えると、オペラの台本どおりの結末も、悲劇には違いないけれどもやはりハッピーエンドだったと思うのです。

悲劇C                                           2005. 7.23
 今回は、以前仙台オペラ協会で取り組んだ2つの悲劇「蝶々夫人」と「カルメン」について考えてみたいと思います。これらは、いずれもヒロインが最後に死んでしまうという「椿姫」と共通した結末を持つオペラです。この2つのオペラを、「椿姫」と同様にいろいろな結末を考えてみるという方法で見てみるとどうなるのでしょう。

 「蝶々夫人」の場合、蝶々さんにはさまざまな選択肢があったはずです。ヤマドリのように蝶々さんに言い寄ってくる男は少なくなかったと思われます。その中には真剣に蝶々さんを愛してくれる男もいたかもしれません。また、ピンカートンがケイトを連れて来て子供を引き取ると言ったあとでも、自害する以外に道がなかったわけではありません。ピンカートンに子供を渡さず、「この子のために!」と奮起して生きていくことも考えられるし、ピンカートンとケイトに子供を託して、自分は一から人生をやり直すこともできたかもしれません。
 でも、ピンカートンと以前のように暮らすこと以外は考えられなかった蝶々さんは、どの選択肢も目に入らず、自害という最も悲しい道を選んでしまったのです。これはまさしく「悲劇的な結末」です。

 「カルメン」の場合は、これはカルメンの悲劇と言うより、私にはホセの悲劇のように思えます。カルメンにはあれ以外の生き方はできなかっただろうし、ホセに殺されなくても、遅かれ早かれ同じような最期を迎えたと思います。(誰かに殺されなくても、捕まって刑務所の中で一生を終えるかもしれません。とにかく、まともな死に方はできないでしょう。)けれども、私は4幕でホセを前にして「自由に生き、自由に死ぬ。誰も私を縛ることはできないのさ!」と言い放つカルメンを何て潔くてカッコいいんだろうと思います。自分の心のままに自由奔放に生きたカルメンにはほかの選択肢は考えられません。
 カルメンに比べると何とも情けないのがホセですが、いろいろな選択肢があったのはホセの方です。
 まず、カルメンと出会わなかったらどうだったでしょう。カルメンと出会わなかったら(出会ってもカルメンの言葉に惑わされず、任務どおりにカルメンを連行していたならば)、軍隊の中でもまあまあの地位まで出世して許婚のミカエラと結婚し、幸せな暮らしをしていたでしょう。
 カルメンを逃がした罪で営倉に入れられたあとでも、密輸団の一味になってからでも、引き返そうと思えばホセにはいくつも道があったはずです。しかしホセは別の道を選ぼうとはせず、どんどんカルメンにのめり込んで行きました。(最後のほうになると、カルメンは嫌気がさしているのに、未練がましくホセがしがみついていたというふうに見えます。)
 最悪なのは、ミカエラが決死の覚悟で密輸団のアジトまで連れ戻しに来てくれたあとです。そのまま故郷に残り、カルメンや密輸団との縁を切れば、ホセはまたもとの平穏な暮らしに戻ることができたかもしれないのです。ところがホセは、せっかくのミカエラの苦労を台無しにしてカルメンのもとに戻ってしまいます。その挙句、カルメンを自分の手で殺してしまうという「悲劇的な結末」を迎えることになります。

 この2つのオペラは、いろいろ考えてみると、台本どおりの結末が最も悲劇的であることが分かります。「椿姫」と同じようにヒロインの死で終わるのですが、「椿姫」とは違って、どう見てもハッピーエンドとは考えられない「悲劇的な結末」を迎える悲劇です。

悲劇D                                           2005. 7.26
 仙台オペラ協会で一昨年取り上げた「ラ・ボエーム」は、「椿姫」と驚くほど共通点があります。

 まず最初に着目しなければならないのは、「ラ・ボエーム」のヒロイン・ミミも肺結核を患っていたという点です。ミミもヴィオレッタと同じく残り少ない限られた命を生きる悲劇のヒロインでした。不治の病(当時は結核が代表的だったのでしょう)は、どうやらドラマの悲劇性を高めるために都合の良い設定のようです。(そういえば一昔前、日本のドラマのヒロインは白血病なのがお約束という時代がありましたね。中には「サインはV」のジュン・サンダースのように骨肉腫という変り種もありましたが・・・)
 「ラ・ボエーム」と「椿姫」はストーリーの展開もよく似ています。
 ふとしたきっかけで出会った二人がお互いに惹かれ、愛し合うようになる。深く愛し合うようになった二人は、どうしようもない力に引き裂かれ、別れ別れになってしまう。しかし、二人は死の直前に再開を果たし、ヒロインは愛する人や友人たちに看取られて死んでいく。
 出会いは、片やパリの社交界のパーティー、片や裏町のぼろアパート、別れの理由も、片や身分の違い、片や貧しさのためという違いはあります。しかし、細かい設定や話の伏線を省いて大筋を見てみると、そっくりであることが分かります。
 もちろん、どちらも悲劇でありながら、ある意味でハッピーエンドであるという点も同じです。

 「椿姫」「蝶々夫人」「カルメン」「ラ・ボエーム」という、仙台オペラ協会でも取り上げた有名な4つのオペラについて見てみました。これら4つのオペラは、いずれもヒロインが最後に死んでしまう悲劇ですが、「椿姫」と「ラ・ボエーム」が、ある意味でハッピーエンドとも考えられる悲劇であるのに対して、「蝶々夫人」と「カルメン」は、考えられる選択肢のうち、最も悲劇的な結末を迎えてしまう悲劇だということが分かりました。
 物語の違った結末を考えるという方法で視点を変えて見たら、ヒロインの死という同じ結末を持つ4つのオペラの意外な類似点と相違点を捉えることができました。

悲劇E                                           2005. 7.30
 初めて「椿姫」を全幕通して見たときに、いかにもドラマチックでリアリティーに欠けると感じたのは、3幕です。特に、アルフレードが戻って来たところからは、あまりにも話がうまく行き過ぎていて、かなり強引に感動的なラストに持って行ったような印象を受けました。ヴィオレッタは死が間近に迫っているのに、アルフレードが来たとたん、「パリを離れて」のデュエットはするし、「死にたくない!」とばかりにエネルギッシュに延々と歌うし、かと思うと急に死んでしまうし、ドラマだから展開がデフォルメされているので仕方ないのでしょうが、かなり無理があるように感じました。
 その場面の前のパリのカーニバルも、なんだかリアリティーのない絵空事のような感じがしました。もしかすると、これは昏睡するヴィオレッタが見た幻かもしれない・・・そう思った瞬間、私の心の中に、ある恐ろしい考え浮かびました。3幕のリアリティーのなさを根本的に解決する、しかし同時に「椿姫」を心の底から凍らせるような悲劇にする結末を思いついたのです。
 今までしてきたように、物語の別の結末を考えたのではありません。オペラの台本は変えずに演出を少し変えるだけで、「椿姫」は「悲劇のハッピーエンド」ではなく、救いのない悲しい結末を迎える悲劇になってしまうのです。
 それは、「アルフレードやジェルモンが来たのは、死の直前にヴィオレッタが見た幻にすぎなかった」とする演出です。

 3幕で医師グランヴィルが帰ったあと、「手紙を見てきて」と言われてアンニーナが部屋を出ていくと、ヴィオレッタは昏睡状態に陥る。朦朧とする意識のなかで、ヴィオレッタは幻を見る。今日はパリのカーニバルで音楽が遠くから聞こえる。アンニーナが突然、「アルフレード様がいらっしゃった」と飛んできた。アルフレードとの再開。ジェルモンもやって来て、今までの仕打ちを詫びてくれた。苦しさが嘘のように消え、ヴィオレッタは自分はまだ生きられると感じる。しかし、そこで現実のヴィオレッタは息を引き取り、幻(アルフレードとジェルモン)は消える。残されたのはヴィオレッタの亡骸を前にして呆然とするアンニーナだけだった。

 幻の中の出来事とすれば、ヴィオレッタがどんなに元気よく「パリを離れて」をアルフレードとデュエットしようが、どんなに延々と「死にたくない!」と熱唱しようが、死の直前に立って歩こうが暴れようが踊ろうが問題ありません。これで、3幕はもの凄いリアリティーを獲得しますが、同時に結末は救いようのない絶望的なものになってしまいます。こんな演出の「椿姫」があったら、きっと後味が悪くて、誰もがもう二度と見たくないと思うことでしょう。(でも私は、二度と見たくないかもしれませんが、一度は見てみたいと思います。)

 オペラはフィクションであり、ドラマである以上、リアリティーはあるけれども救いのない結末よりも、多少リアリティーを犠牲にしても救いの見出せる結末の方がいいのでしょう。

悲劇F                                           2005. 8. 6
 これまで6回にわたって悲劇について書いてきました。このシリーズを締めくくるにあたって、いろんな悲劇について考えてみた上で、あらためて傑作だと感じた2つの悲劇について書こうと思います。

 一つは(みなさんも小学校で習ったと思いますが)新美南吉の「ごんぎつね」です。「ごんぎつね」は、今までやってきたようにいろいろな結末を考えてみたとき、「物語どおりの結末が一番悲しい悲劇」の仲間に入ります。どうして私が、数多いそんな悲劇の中でも「ごんぎつね」を傑作だと考えるかというと、物語の本当の結末と、そのすぐ隣にあった幸せな結末との落差があまりにも大きく、それが悲劇を際立たせているからです。
 ごんは、せっかく兵十が捕まえたうなぎを、いたずらで盗みました。そのために兵十のおっかあは、うなぎを食べられないまま死んでしまいました。いたずらを悔いて、ごんは償いとして兵十に栗などを届けるようになります。ごんは償いの意味でやったのでしょうけれど、自分では気づかなくても心のどこかで、おっかあを亡くして独りぼっちになった兵十と心を通わせたいと思っていたに違いありません。そんな思いが凝集していってのラストシーンです。
 もし兵十がごんを見つけるのが、ごんが家に入って行くときでなくて帰るときだったら、物語は全く反対の幸せな結末を迎えたことでしょう。兵十はごんの償いの行為に気づき、二人は動物と人間という壁を越えて友情を育むことができたに違いないからです。
 ところが運命のちょっとしたいたずらで、兵十が見つけたのは家に入って行くごんでした。兵十は最高の友人になるはずだったごんを自分の手で撃ち殺してしまいます。すぐ隣に幸せな結末が存在しただけに、ごんの哀れな最期や、そのときの兵十の無念さが胸に迫ります。

 もう一つはシェークスピアの「ロミオとジュリエット」です。(「ごんぎつね」もそうですが、「ロミオとジュリエット」はなおさら、私ごときが傑作だと言わなくても、全世界が認めた傑作中の傑作です。まあ、物語のいろいろな結末を考えるという観点で見ていって、私が気がついたことだと思って読み進めてください。)
 「ロミオとジュリエット」は結末を分類できません。もちろん悲劇には違いないのですが、今までのように、「悲劇のハッピーエンド」か「悲しい結末を迎える悲劇」かはっきりしないのです。
 確かに外側だけ見れば、「二人で手に手を取り合い駆け落ちする」ということが叶わず、二人が死んでしまう「最も悲しい結末」を迎える悲劇です。しかし、駆け落ちが成功すれば、二人は連れ戻される恐怖に曝されることになるわけで、「絶対に引き裂かれることがない死後の世界で結ばれるのだ」と考えて死を選んだときの二人の心は満たされていたかもしれません。また、二人の死によって長年敵対してきたモンタギュー家とキャプレット家は和解することができます。このことも含め「悲劇のハッピーエンド」と言えるかもしれません。
 見方によって「最も悲しい結末」とも「悲劇のハッピーエンド」とも見ることができる「ロミオとジュリエット」。さすが天才シェークスピアの代表作の一つ、結末だけ見ても一筋縄ではいかない複雑で微妙なドラマであることが分かります。

 事実は小説よりも奇なり。実は私たちの人生も喜劇と悲劇が複雑に絡み合い割り切れない微妙なものなのではないでしょうか。また、人生は別の選択肢を選んでみることができない一発勝負です。そしてそれはハッピーエンドになるのか悲しい結末になるのか誰にも分からないドラマです。でも、必ず自分が主人公!人生はどんなオペラよりも楽しいかもしれません。


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