もの思いの放課後

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雛人形                                            2006. 2.26
 私が高校1年生の二月末(ちょうど今頃)のことです。家に帰ると雛人形が飾ってありました。五段飾りや七段飾りという豪華なものではなく、三人官女や五人囃子もいないお内裏様とお雛様だけのごくシンプルなものでした。女の子のいないわが家でどうしたのかと思って母に聞いてみると、小さいころからずっと飾りたかったので、思い切って買ったのだと言うのです。

 母が幼い頃、旧家だった家には立派な雛人形があったそうです。人形は一つ一つ桐の箱に入っていて、季節になると祖母(私からすると曾祖母)が、大事に取り出して飾り付け、三月三日が過ぎるとまた一つ一つ丁寧にしまっていたのをぼんやり覚えているそうです。
 母が物心付く頃に、日本は太平洋戦争につながる長い戦時下に入り、雛人形を飾っているような世相ではなくなってしまいました。母は、早くまたお雛様を飾れるようにならないかなあと心待ちにしていたそうです。しかし、戦争は長引き、そのなかで父(私からすると祖父)や叔父たちが相次いで亡くなってしまいました。
 ようやく戦争が終わっても、一家の働き手を失って、しかも農地改革でそれまで持っていた田畑も小作人に売り渡さねばならなくなり、家は困窮を極めていました。とても雛人形を飾るような余裕はありませんでした。金策のためにさまざまなものを売ったそうですが、それでも雛人形は大切に取っておかれていました。母は、もう少し暮らしが落ち着いたらまたお雛様が見られると思っていました。
 ところが、昭和22年、キャサリン台風が岩手県南・宮城県北に大きな被害をもたらしました。家は洪水で2階まで水に浸かり、家財道具のほとんどが流されました。あの立派な雛人形もそのとき失われ、もう二度と飾られることはありませんでした。こうして、母はお雛様を飾れないまま子ども時代を過ごしてしまったのです。

 母は、それでもずっとお雛様が飾りたかったので、自分に女の子が生まれたらぜひと思っていたのだそうですが、残念ながら生まれた一人っ子の私は男でした。そんな息子も、無事、義務教育を終え高校生になれたので、もうそろそろいいだろうと思って自分のために雛人形を買ったのだと、その時母が話してくれました。

 時代が時代だっただけに、私の母のような思いをした人々は少なくなかったことでしょう。私は、デパートに豪華な雛人形が並び、テレビから「 灯りをつけましょ ぼんぼりに 〜 」のメロディーが流れるころになると、あのときの母の話を思い出し、平和なこの時代に暮らしている私たちは何て幸せなんだろう、当たり前のようにお雛様を飾ってもらえる今の子どもたちは何て恵まれているんだろうとしみじみ思います。


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