もの思いの放課後

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バターご飯                                          2006. 3. 4
 今回も、前回の「雛人形」に引き続き、あるとき、母が私に話してくれた辛かった戦争の思い出について書こうと思います。

 母の父(私にとっての祖父・真澄さん)は身体が弱かったらしく、兵隊検査を受けたものの合格せず、徴兵されませんでした。戦地に赴くことなく地元に残ったのですが、兵隊として国のために戦えないということで、ずいぶん肩身の狭い思いをしたようです。働き盛りの男たちはみんな出征していて、女子供、年寄りしか残っていなかったので、地元に残っていた真澄さんはさまざまな役職・仕事を引き受けざるを得ませんでした。兵隊として戦えない悔しさを晴らすかのように、真澄さんは朝から夜遅くまで本当によく働いたそうです。ところがもともと身体が弱かった上に、いくつもの役職・仕事を抱えて無理をしたのでしょう。真澄さんはとうとう身体をこわしてしまいました。結核でした。
 結核を治すには十分な休養と栄養が必要です。でも、戦時中のことですからどちらも望むべくもありません。真澄さんの病状は次第に悪化していきました。父親に甘えたいと思っても結核がうつるからと言われ、母は傍に寄らせてもらえなかったそうです。
 母の母(私にとっての祖母)は、自分の着物を一枚一枚を売って療養費を捻出していたようですが、ある日、真澄さんのために栄養価の高いバターを買ってきました。
 祖母は包みの銀紙を開いて、バターを包丁で丁寧に切り分けていきました。まず縦に半分に切って、それから横に1cmくらいの厚さに切っていきます。母はその様子をじっと見ながら、おいしそうだと思っても、それが父親の命をつなぐものだと分かっていたので、決して欲しいとは口に出しませんでした。でも、そんな姿を健気に思ったのか、祖母は「父さんのものだけど、一つだけだよ。」と言って母に一切れ食べさせてくれたそうです。
 真澄さんが亡くなった日も、母は勤労奉仕で家からかなり遠いある農家の田植えを手伝わされていたため、死に目に会うことができませんでした。教頭先生が自転車で農家まで呼び戻しに来てくれて、その自転車の荷台に乗って急いで病院に駆けつけたのですが間に合いませんでした。

 バターご飯(焚きたてのご飯にバターを溶かし、醤油をちょっとたらして食べる)は、私が幼かったときに、母が「こうやって食べるとおいしいんだよ。」と教えてくれたものです。母がバターご飯が好きなのは、バターにそういう特別な思い出があるからかもしれません。私もバターご飯が大好きで、今でもよく食べていますが、母の話を聞いてからというもの、私にはご飯の上に黄金色に輝くバターが平和の象徴・豊かさの象徴のように思えるのです。


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