表現力を育てる 2006.11. 9 |
また今年も学芸会のシーズンがやってきました。仙台市内は今週か来週のどちらかに学芸会を行う小学校がほとんどだと思います。だいたい水曜日か木曜日に学芸会・児童の部(子どもたちが自分たちの演技を見せ、他の学年の演技を見るための学芸会で、保護者の部に向けてのゲネプロ的な意味合いもある)を行い、週末の土曜か日曜に保護者の部(一般公開)を行うということになります。
私の勤務する小学校では今日、学芸会・児童の部が行われました。子どもたちはもちろんのこと、私たち教師も他の学年の演技を初めて見ました。(自分の学年以外は、練習を断片的に垣間見る程度ですから、学芸会の全容が明らかになるのはこの学芸会・児童の部なのです。)
5年生の劇を見て驚きました。台詞にあわせて身振り手振りのオンパレードです。1年生がやるのならほほえましく見ていられます。それが3年生だともうちょっと何とかならなかったの?という感じがします。まして5年生が日常にはありえない身振り手振りでいかにも学芸会的な演技をしているのを見ると、見ているこちらの方が恥かしくなります。きっと頭のよい子、感受性の強い子の中には「何か変だ」「本当は違うんじゃないか」と感じながらやっていた子どももいるのではないかと思います。いくら子どもでも、いいえ、子どもだからこそ本物とそうでないものの違いははっきりと分かります。「何か変だ」と感じても何が変なのかよく分からなかったり、うまく言葉に出来なかったりするだけです。子どもだからこそ、本物を体験させなければならないのに、なぜあんな学芸会的な演技をさせてしまうのでしょうか。
先に書いたように、私は他の学年の練習を見たわけではありません。だから、ここから後は私の学校の5年生のことではありません。私が今まで見てきたかなりの数の演技指導の典型について述べます。
だいたい指導者は、子どもたちが台詞を覚えて大きな声で言えるようになると、「台詞に合う身振りを考えてごらん」などと言います。すると、子どもたちは「大きな」という台詞に合わせて腕を振り回したり、「あなたが」という台詞で相手を指差したり、考え込むとき腕組みして首をかしげたり、驚いたときは必ずしりもちをついたりと、とにかく自分の数少ない手持ちの駒で演技をします。(幼稚園でやってきたレベルです。)すると、指導者は「工夫したね」とか「よく考えたね」とか言って、それを採用します。指導者はそれで、「子どもたちに表現を工夫させた」「自発性を大切にした」「表現力を育てた」などと言うのです。
子どもたちが数少ない持ち駒(ほとんどが何の工夫もない紋切り型)で演技したとき、それが優れた表現のはずがありません。だったら指導者は子どもの中のステレオタイプを打ち砕き、より高い表現を目指すように導かなければならないはずです。だいたい、指導者は自分の中に具体的な演技の理想像を持って指導しているのでしょうか。もしかして、学芸会だから学芸会的表現でいい、あるいは学芸会的な表現がいいと思っているのでしょうか。だとしたら、表現を追求するもの、表現力を育てる指導者としては失格ですね。
私は演劇の専門家ではありません。でも、少なくても紋切り型ではない、そのときそのときの演技を探そうと思っています。表現を追求することは、紋切り型を捨てるところから始まると考えるからです。結果的に私が劇を指導するとほとんど身振り手振りは付きません。(日常の生活を考えてみると、私たちは普段会話するときに身振りなどまずしませんからね。)見ようによっては劇として物足りないと思われるかもしれません。でも、私は嘘の身振り手振りをするくらいなら、ただひたすらに思いをこめて台詞を言うだけの方がましだと思っています。子どもが「大きな」と言いながら腕を振り回したとき、「それは違うよ」と言うべきだと信じているのです。 |
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