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オモイコンダラ@ 2005. 4. 2 |
大学の合唱団にいたころの私は、講義に出ていることよりも、サークル室に入り浸って合唱団仲間とだべっていることのほうが多かったように思います。その当時の合唱団は先輩・後輩関係なく、何でも自由に話せる雰囲気でした。また、私たちの学年は人数も多く、仲が良かったこともあると思いますが、とにかく合唱団のみんなといるのが楽しかったのです。
その日も私はサークル室で、みんなととりとめのない話をしていました。話題は昔のテレビ番組のテーマソングのことでした。定演のピアノ伴奏で来ていただいていた石川さん(宮教大混声OBでもある)が、練習の合間に「巨人の星」のテーマによるフーガとか、長調の「巨人の星」とかを遊びで弾いていたことがあったからだと思いますが、「巨人の星」のテーマソングの話になりました。
「歌といっしょに映像もはっきり浮かんでくるよね。」
「そうそう、練習後の夕暮れのグランドをローラーかけて整備しているのよね。」
私は、「巨人の星」のテーマソングの映像としては、飛雄馬が父ちゃんといっしょにうさぎ跳びをしているところと、飛雄馬が父ちゃんのノックを受けていて、受け損ねてもどんどんボールが飛んでくるところしか浮かばなかったので、飛雄馬がローラーを引っぱっている映像はあったかな?と思いながら黙って聞いていました。
「私もテニス部だったけれど、やったわ。あのローラーが重くて、練習後はきついのよね。」
その時、それまでニコニコして聞いていたソプラノのUさんが突然口を開きました。
「えーっ、飛雄馬が引っぱっているのは、コンダラっていうんじゃないの?」
みんなは、えっ、コンダラって何のこと?・・・と思ってUさんの次の言葉を待ちました。
「だって、重いコンダラ 試練の道を〜って歌ってるじゃない。飛雄馬が引っぱっているあれのこ
とでしょう。」
次の瞬間、サークル室は爆笑の渦に飲み込まれました。みんな、笑って、笑って、笑いました。
Uさんはずっと、テーマソングの歌詞の「思い込んだら」を「重いコンダラ」だと思い込み、飛雄馬が引っぱっているのがコンダラというものだと信じていたらしいのです。
その日、みんなの胸には、「巨人の星」のテーマソングとともに「コンダラ」という言葉が深く刻み込まれたのでした。 |
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オモイコンダラA 2005. 4. 9 |
日本語のアクセントは、音の高低によるピッチ・アクセントであり、歌の中ではメロディーの流れと言葉のアクセントが必ずしも一致するわけではないので、思い違いが多くなるのだと思います。また、日本語の歌では、一つの単語がいくつかの音符にまたがることが多いので、本来は長く伸ばさないところを伸ばして歌われる言葉も出てきます。それも思い違いを生む大きな原因だと思います。「思い込んだら」を「重いコンダラ」というほどではありませんが、私にも歌詞の思い違いの経験がけっこうあります。
物心がついてから初めて不思議だと思ったのは「肩たたき」の歌の中の一節です。「肩たたき」の歌はご存知でしょう。「 母さん お肩をたたきましょう タン
トン タン トン タン トン トン〜」という歌です。子供がお母さんの肩をたたいてあげるかわいい歌なのですが、その歌のちょうどまん中あたりに「オーエンガワ ニハ ヒガ イッパイ」という部分があります。初めて聞いたときに、私はそこで甲子園のアルプス・スタンドを思い浮かべました。そして幼心にも「あれ、今までお母さんの肩たたきをしていたはずなのに、なぜここで急に場面が変わってしまうのだろう?」と不思議に思いました。歌はその部分を過ぎるとまた親子が肩たたきをする日常的な風景に戻ります。幼い私はなおさら混乱しました。
そうです。私は「オーエンガワ」が「お縁側」とは分からず、「応援側」だと思い込んでしまったのです。そして、「きっと、肩たたきしながら高校野球のテレビ放送を見ていたんだ」「お天気がよくて気持ちいいんだから、きっと春の高校野球だろう」と勝手にこじつけて、自分なりに納得していたのでした。
もう一つは、「七つの子」の中の一節です。「七つの子」は、歌の最初から謎に満ちていました。「七つ」というのは七歳のことなのだろうか?七羽のことなのだろうか?なぜカラスに子が「いる」と言わないで「ある」と物みたいに言うのだろうか?などです。しかし、もっと大きくて不気味な謎が後ろに控えていました。「山のフールス」です。
幼い私は、「フールス」をインフルエンザ・ヴィールスの一種か何かだと思い込み、「七つの子」を、かなり大きくなるまで、謎だらけで気味の悪い歌だと感じていました。 |
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オモイコンダラB または ヨコハマ・タソガレ 2005. 4.16 |
私が歌詞について思い違いをしていたのは幼いときに聞いた童謡だけかというと、そうではありません。小学校に入り、童謡を聞かなくなっても、やっぱりいろいろな歌でいろいろな思い違いをしていました。その中でも一番大きな思い違いは(ひとつの歌についての思い違いというのではなく、いろいろな歌に出てくる言葉なのですが)、「口づけ」の意味の取り違えでした。
私は「口づけ」を、「口伝え」 「言付け」などと同じように、「伝言」という意味だと思い込んでいたのです。それで、当時テレビで盛んだった歌謡番組で、演歌や歌謡曲のなかに「口づけ」という言葉が頻繁にでてくるのを聞いて、「大人っていうのはどうしてこう伝言をしたがるのかな」と不思議に思っていました。さすがに幼い私でも、歌がずいぶん艶っぽい内容だということは分かりましたから、伝言は伝言でも「愛のメッセージ」を「口づけ」と言うのだろうと解釈していました。
五木ひろしの「よこはま・たそがれ」についての思い込みは、今思うと、「間違った解釈でも、ここまで推し進めれば立派!」という感じです。その当時、私がこの歌をどう解釈していたかを書いてみます。(カッコ内は注釈および、当時の私の解釈です。)
よこはま たそがれ ホテルの小部屋 ( ここまでは間違いなく分かった )
口づけ 残り香 ( 二重の間違い 口づけ→伝言 残り香→残りが 伝言を残しておいたが )
煙草のけむり ( うまく伝わらないで、タバコの煙のように消えた )
ブルース 口笛 女の涙 ( ここも分かった )
あの人は行って行ってしまった あの人は行って行ってしまった ( 当然分かった )
もう帰らない ( だから、大事なことは伝言じゃなくて直接言わなきゃダメ! )
口づけを伝言だと思い込んでいた私が、口づけは Kiss という意味だと分かったのは、なんと中学生になってからでした。
(歌の正式なタイトルはカタカナ表記ではなく、文章中に記したように「よこはま・たそがれ」です) |
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オモイコンダラC 2005. 4.23 |
やはり大学時代の、ある日のサークル室のことです。その日も私は合唱団の仲間とだべっていました。いつのことかはっきりとは覚えていませんが、「コンダラ事件」以降のことだと思います。「コンダラ事件」の影響なのか、メロディーと歌詞のズレについて話題になりました。私は、そのときに感じていたことを言いました。
「前から思っていたんだけど、中島みゆきの悪女のサビの部分、あれはどう聞いても悪女とは聞こえないよね。俺、どうしても 薄情になるなら〜って聞こえるんだ。」
「ああ、悪女になるなら〜っていうふうに最初に ああ を入れればちゃんと悪女に聞こえると思うんだけどな。」
すると、それに対してソプラノのM さんがこう言いました。
「それだと普通でつまらないじゃない。」
私は意外なことを言われて言葉が出ませんでした。それまでメロディーと歌詞のズレを作曲上の欠点だと考えていた私は、おもしろいとかつまらないとかいう観点でとらえたことがなかったからです。でも、言われてみれば「ああ、悪女になるなら〜」にすると、メロディーの流れと歌詞のアクセントがピッタリと一致するものの、かえってそれゆえに凡庸に聞こえます。
中島みゆきがそういうことを考えて、わざとメロディーの流れと言葉のアクセントをずらして曲を書いたのか、あるいは全くそういうことを考えずに感覚的に曲を書いたら結果的にそうなったのか、それは分かりません。でも、もし「ああ、悪女になるなら〜」というサビにしていたらインパクトが弱くて、悪女はあれほどの大ヒットにはならなかったかもしれません。
M さんの一言がきっかけで、メロディーと歌詞がピッタリと合っているから良い、ズレているから悪いと単純に言えないものなんだ、音楽と言葉の関係はもっと微妙で複雑なものなんだという、それまで私になかった認識ができました。 |
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オモイコンダラD 2005. 4.30 |
これまで「オモイコンダラ」と題して、歌の言葉とメロディーとの間に生ずる さまざまな思い違いやズレについて書いてきました。けれども、いま世の中にあふれている歌(おもにジャパニーズ・ポップスと呼ばれる分野ですが)を聞くと、もう そんなことを問題にする意味は なくなってしまったのではないかと思います。歌詞とメロディーの関係が、どうしようもないほど希薄になっていると感じるからです。
サザンオールスターズが「勝手にシンドバッド」を引っさげてデビューしたとき、その一見めちゃくちゃな歌詞と、日本語に聞こえない桑田佳佑のヴォーカルで、「日本語の崩壊」と騒がれました。しかし、でたらめに見える歌詞も、湘南に集まる若者たちの軽いノリをリアルに感じさせるための計画的な崩しだし、それが疾走するメロディー、桑田独特の歌いまわしと相まって、夏の湘南のイメージそのものといった曲になっていました。歌詞には、めちゃくちゃになる必然性があり、そしてそれはメロディーと深く結びついていました。
極端な例として「日本語の崩壊」とまで言われた「勝手にシンドバッド」を引き合いに出したわけですが、私が慣れ親しんできた「歌」はそのように、言葉とメロディーとが結びつき、一体となってひとつの世界や物語を形作っていたのです。
ところが、いまのジャパニーズ・ポップスには、そのメロディーにその歌詞が結びつく必然性が感じられないものが多いのです。歌詞は歌詞で言いたいことは明確だし、メロディーはメロディーでなかなか個性的なのですが、両者はお互いにそれぞれ主張するだけで、一体となって相乗効果を生むということがないように感じられます。メロディーにたまたま日本語の歌詞がついていたから日本語で歌われているだけという感じで、言葉のニュアンスや、言葉の意味の深さや広がりのようなものが顧みられていません。まして言葉のイントネーションやアクセントと、メロディーとのズレを問題にするようなレベルではありません。
「あなたの考え方が古いのだ」「感覚が古いのだ」と言われればそれまでです。しかし、「歌」が人の心に「訴う」ものであるならば、言葉とメロディーが一体になっていないものが人々の心の中に永く残る歌になるとは思えません。 古くてけっこう、私は心に訴う歌を聴きたいし、歌いたいと思っています。 |
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