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バッハ・アカデミー@ 2005. 5. 7 |
毎年、ゴールデンウィークの頃になると、私が初めて参加したバッハ・アカデミーのことを思い出します。
私が大学在学中に第3回日本バッハ・アカデミーが開かれました。ちょうどゴールデンウィーク期間中の開催でした。東京での一週間にわたる開催ということで、どうしようか躊躇しましたが、思い切って受講することにしました。アカデミーの音楽監督がヘルムート・リリングで、いっしょにバッハ・コレギウム・シュトゥットガルトやゲヒンゲン聖歌隊も来日するし、講師陣もバッハ演奏の最高峰のメンバーが揃っており、本場シュトゥットガルトで行われているような本格的なアカデミーが国内で受講できるからです。
はじめは合唱のレッスン生として受講することを考えましたが、それだと合唱のレッスンにかかりっきりになり、他のレッスンを聴きにいけないので、直接指導は受けられないものの、どのクラスのレッスンも聴くことができる聴講生として受講することにしました。アカデミー全クラス共通の課題曲は「マタイ受難曲」でした。
アカデミーを前に、予習のため大学の資料室からレコードを借りて、初めて「マタイ受難曲」全曲を聴きました。それまでバッハのモテットやカンタータの合唱はいくつか歌ったことがありましたが、「マタイ受難曲」の全曲は聴くのも初めてでした。
レコードは1958年録音のカール・リヒターのものでした。レコードに針を下ろすと、重くて暗い第1曲 合唱の前奏が始まりました。歌いだした合唱団の何と切迫した声。聴くものにただならぬ事態を予感させる緊迫した第1曲は、その異常なまでのテンションの高さを保ったまま終わります。それに続く2曲めのレチタティーヴォはうって変わって、静かに自分が十字架に架けられることを語るイエスの言葉になります。その後、いくつものエピソードが積み重ねられ受難曲は進んで行きます。リヒターの演奏は初めて聴く私を惹きつけました。こうして3時間半にもおよぶ全曲を聴き終わる頃、私はすっかり「マタイ受難曲」に魅せられてしまいました。
アカデミーを受講するため東京に出発するまでの間、私は何度もこのレコードを聴きました。 |
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バッハ・アカデミーA 2005. 5.10 |
バッハ・アカデミー受講のため、ゴールデンウィークを前に上京しました。仙台ではゴールデンウィークといっても肌寒い日が多いので、ワークシャツの上にトレーナーを着て行ったのですが、東京はそんな格好だと汗をかくような陽気でした。
第3回日本バッハ・アカデミーは、上野の東京文化会館と上野学園大学をおもな会場として行われました。どのレッスンでも見ることのできる聴講生のメリットを生かして、いろいろなクラスのレッスンを覗きました。合唱のレッスンは全く見ないで、おもにヘルムート・リリングがレッスンをする指揮科と、声楽の各ソリストのレッスンを見ました。
声楽のソリストのレッスンの中では、ソプラノのアーリン・オジェーのレッスンが、特に印象に残っています。オジェーは、小野先生がドイツ留学のときに師事した歌手なので、どんなレッスンをするのか、ぜひ見たいと思っていました。
あるレッスン生は高音域での弱音の表現がうまく行きませんでした。とてもよく練習してきたらしく、大変立派に歌っていましたが、高音域でどうしても声を突っ張ってしまって弱音の表現が硬くなっていました。自分でもそこがうまく行っていないことが分かっているらしく、納得できないような表情をしていました。そんなレッスン生にオジェーが言いました。
「目を閉じて、水面に睡蓮が浮かんでいる様子を思い浮かべてください。」
レッスン生は言われるままに目を閉じました。
「見えましたか。」
「はい。」
「その睡蓮の花の一つが、いま静かに開こうとしています。見えますか。」
「はい。」
「では、いま花が開いたような歌い方で歌ってみてください。」
そんなやり取りのあと、レッスン生の声は、周りで聞いていた私たちにも分かるくらい変わりました。レッスン生は、問題解決の糸口が見えてきたという明るい表情になりました。そんな彼女にオジェーがまた言いました。
「いま開いた花は何色でしたか。」
「白い花でした。」
「では、歌い方も白い花のようにしてください。」
これでまた声ががらりと変わりました。周りで聞いていたほかのレッスン生や聴講生たちから思わずほうっと声が漏れました。歌ったレッスン生本人も魔法にかけられたような信じられないといった顔をしていました。
レッスンの終わりにオジェーは言っていました。
「みなさんは、私が高い音を楽々と歌っていると思っているかもしれませんが、決してそんなことはないのです。」
それ以上は語りませんでしたが、その時オジェーはきっと「表現のために自分の持てる技術、想像力、感性、そういったものを総動員して歌いなさい。(私もそうしているのだから)」と言いたかったのではないだろうかと今になって思います。 |
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バッハ・アカデミーB 2005. 5.12 |
アカデミーの期間中、指揮科のレッスンがあるときには必ずそれを聴講しました。楽器奏者、あるいは歌手として演奏技術を習得しようというのなら話は別ですが、そうではなくてマタイ受難曲、ひいてはバッハの音楽をより深く理解するためにアカデミーに参加したのであれば、やはり音楽監督のリリングのレッスンを聴講するのが一番だと考えたからです。
指揮科のレッスン生は15人ほどで、その中には仙台から参加した岡ア先生と今井先生も含まれていました。二人とも、当時すでに仙台の音楽界で指導者として確固たる地位にあったのに、音大生やほかの一般参加者に混じって、そうやってレッスンを受けているという向学心あふれる姿に感動しました。
さて、リリングの指揮科のレッスンですが、その時はリリングのバッハ研究者としての知識の広さと深さに驚き、バッハ演奏者としての楽譜の読みの透析性とそれに基づく指揮の緻密さに唸ったはずなのに、今思い出そうとしてもオジェーのレッスンのようなはっきりとした情景は浮かんでこないのです。
覚えているのは、第1曲の合唱でコラール旋律についてリリングが、「ドイツの人々にとってコラールはとても身近な誰でも知っているものなので、必ずしも音量的に大きい必要はない」と言ったのに対して、私はなるほどと納得しつつも「リヒターの演奏では、たとえドイツ人でなくても、キリスト教徒でなくても、誰が聞いても絶対に気づくほど音量的に大きかったんだけどなあ」と思ったことと、バッハがマタイ受難曲でも随所に使った「数の象徴」についてリリングが説明するのを聞きながら、「知識として知っておくことは大事なんだろうけれど、その知識はどのように演奏するかということには直接的には結びつかない知識だなあ」と思ったことです。
どちらも、リリングが語っている姿や情景は思い出せないのに、そのときの自分の心象だけを覚えているという何とも不思議な思い出です。 |
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バッハ・アカデミーC 2005. 5.14 |
アカデミーも後半になると、声楽・器楽・合唱と別々に行っていたレッスンが、終了演奏会のためのリリングによる合同レッスンになってきました。今までのクラスごとのレッスンをもとに、マタイ受難曲の全曲演奏のためにリリングが仕上げをしていくのです。
リリングのリハーサル・テクニックは素晴らしく、マタイ受難曲のリハーサルも非常に計画的で綿密なもので、練習の進め方や注意点が1冊の本になるくらいでした。(その本は、アカデミーの会場で売っていましたし、今でも音楽関係書籍として販売されているかもしれません。)とにかく無駄なく、効率的に練習が進められていました。
合同レッスンについても、一つ一つの指導についての鮮明な記憶はありません。ただ、ものすごくきっちりとした練習の進め方だという印象と、リリングは練習を進める中でも常に礼儀正しく、オーケストラ・合唱団・レッスン生に対しても丁寧な言葉を使っており、相手を一人の音楽家として接しているんだという強い印象が残っています。
第3回日本バッハ・アカデミーの終了演奏会は、5月5日に昭和女子大学人見記念講堂で行われました。演奏はレッスン生を含めたオーケストラと合唱団で、マタイ受難曲第1部の指揮が指揮科レッスン生、第2部の指揮がリリングという形で行われました。
第1部は、多少緊迫感に欠けるところはありましたが、まずまずの演奏でした。レッスン生もそれぞれがんばって自分の役割を全うしたようでした。第2部は、リリング自身が指揮したこともあり、オーケストラも合唱団も、そしてソリストたちにも気合が入ったようで、気迫のこもった白熱した演奏になりました。特に最後の合唱は、受難曲の終曲ということと、これでアカデミーも終わるのだという思いが演奏者全員を熱くさせたのだと思いますが、ホール全体が震えるほどの音がしました。リリングが追求するバッハ演奏がアカデミーを通して演奏者全体に浸透し、かなり純粋な形で具現化した演奏ではなかったかと思います。
バッハ・アカデミーに参加し、リリングの指揮科のレッスン・合同レッスンを全部見て、その広く深いバッハ研究の成果としての隙のない音楽づくりに感嘆し、完成度の高い終了演奏に感動した私でしたが、最後に「でも、やっぱりリヒターの演奏のほうがいいな」と思ってしまいました。これはどうしてなのか何とも説明のしようがありません。理由は自分でもよく分からないのです。皮肉なことに、バッハ・アカデミーを受講してリリングの凄さを実感し、その演奏の妥当性に納得しながらも、ますますリヒターが好きになってしまったのでした。 |
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