もの思いの放課後

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エコに関する素朴な疑問@(二酸化炭素)                        2010.10.24

 テレビを見ているとエコカー、エコ家電など、エコ(エコロジー、あるいはエコノミーも含まれているのでしょうか)を売り物にしたCM が目白押しです。いま、テレビだけでなく、ラジオ・新聞・雑誌など、いわゆるマスメディアにはエコという言葉があふれています。エコや環境問題は、現代人の生活の中に大きく入り込んできています。
 私も、地球に生きる人類の一人として、地球の環境、生態系などに関心を持ち、それを維持していこうと努力することに反対するわけではありません。反対どころか、私個人としても、公立学校の教員としても、
できる限り力を尽くしたいと思っています。
 ただ、エコという言葉、環境問題という言葉があふれている割りには、根本的なところが曖昧なように感じます。もしかすると、これから述べるようなことは社会の常識で、私だけがその常識から取り残されているのかもしれません。当たり前すぎて、今さら聞くのが恥かしいようなことなのかもしれませんが、私の中に積もり積もっている疑問を吐き出して、スッキリしたいと思います。

 まずはじめに、根本の根本となる疑問を述べておきます。
 環境問題では、地球温暖化という言葉を最もよく耳にします。平均気温が何十年で何度上がるとか、そのために海水面が何十センチメートル上昇するだとか、まことしやかに言われています。そして、その原因となる温室効果ガス(おもに二酸化炭素)の削減が叫ばれています。私の実感としては、環境問題の中でも、二酸化炭素削減がかなり大きなウエイトを占めているように感じられます。
 でも、私にはこれが疑問です。本当に平均気温がその通り上昇していくのでしょうか。そして、それは本当に二酸化炭素が原因なのでしょうか。
 確かにここ何年か、地球の平均気温が上がっているかもしれません。しかし、それがこの後何十年も続くと誰が言い切れるのでしょうか。何を根拠に何十年も先を予想するのでしょうか。
 百歩譲って、何十年にもわたって、地球の平均気温が上がっていったとします。でも、それが本当に温室効果ガス(二酸化炭素)が原因でそうなっていると言い切れるのでしょうか。地球環境はあまりに複雑に要因が絡まり合っているために、原因と結果を結びつけることは容易ではないはずです。地球温暖化と二酸化炭素の因果関係については、科学的な根拠が明確に示されていないのではないでしょうか。
 
 本当に地球温暖化が進んでいくのか、そして、それが本当に二酸化炭素が原因なのか明らかでないのに、CM で「二酸化炭素 ○%削減を達成!」とか謳っているのを見ると、私は何だかむなしい気分になってきます。その「二酸化炭素○%削減」が、いったいどれだけ地球温暖化に歯止めを掛けることになるのか、あるいは全く見当違いの無駄なことをしているのか、さっぱり分からないからです。


エコに関する素朴な疑問A(科学的根拠)                        2010.10.30
 前回、「地球の平均気温がこれから何十年と上がり続けていくこと」や「温暖化のおもな原因が二酸化炭素によるものであるということ」の科学的な根拠はあるのだろうかと書きましたが、根拠もないのに世界中が動くわけがありません。

 国連の下部組織「気候変動に関する政府間パネル」による IPCC 第4次評価報告書を見てみました。ウィキペディアによると、これは「地球温暖化に関して、世界130カ国からの2千人以上の専門家の科学的・技術的・社会経済的な知見を集約し、かつ参加195カ国の政府代表から成るパネルによって認められた報告書」で、世界でもっとも確かな資料のようです。
 これを見ますと、「ここ半世紀の温暖化は、自然現象だけを要因とすると説明が付かず、人為的な要因が加わっていると見るのが妥当である」としており、それは「ほぼ揺るぎない」ことだそうです。また、このままのペースで二酸化炭素の排出が続けば、地球の平均気温の上昇も間違いないことのようです。
 「温暖化が自然の要因だけでは説明が付かない」→「空気中の二酸化炭素などの濃度は産業革命以前よりはるかに高くなっている」→「空気中の二酸化炭素の増加は人間の化石燃料使用が原因である」・・・というような論法で、たくさんのデータや科学者・専門家の研究結果によって結論付けられています。また、温暖化のペースも、これまた膨大なデータの分析をもとに、数多くの専門の研究者が算出しているので、科学的根拠がないどころか、私ごとき素人が疑問をはさむ余地などなさそうです。
 確かに科学的に言えばそれ以外の結論はないのかも知れません。でも、やはり何か腑に落ちないのです。「自然の要因だけでは説明が付かない、だからそれは人為的なものだ」というのは、「科学で説明できないことは存在しない」といった科学万能主義の裏返しのような、人間の驕りのようなものを感じるのです。

 しかし、そのことについては考え直しました。腑に落ちないから受け入れようとしないとか、納得できないから行動しないとか言っていたら、何も変わりません。たとえそれが杞憂になるかもしれないとしても、温暖化を防ぐために対策を講じることが悪いことではありません。また、温暖化阻止にどのくらいの効果があるか分からなくても、それが二酸化炭素削減を否定する理由にはならないでしょう。環境のために、自分たちにできることをやろうとする潮流そのものは、良いことに違いないはずです。

エコに関する素朴な疑問B(レジ袋とゴミ袋)                       2010.11.3
 気候の温暖化や、その対策としての二酸化炭素削減などというグローバルな問題から、今回はぐっと身近な話題に移ります。

 最近、スーパーなどでレジ袋が有料(一枚3円くらい)というところが多くなりましたが、私はまずこれが疑問です。
 私には、企業が利益のために、エコを口実にして消費者に対するサービスをカットしたとしか思えません。だって、今まで企業がお金をかけて提供していたレジ袋を、逆にお客さんからお金を取る立派な商品にしてしまったのですから。
 企業が、今までどおりのサービスを維持しながらエコ活動をしようというのなら、買い物袋を持参してレジ袋をもらわなかったお客さんに、その分のお金を戻すというふうにすればいいでしょう。あるいは、買い物袋を持参することを呼びかけつつ、買い物袋を持参しなかったお客さんには今までどおりレジ袋を提供するという、ゆるやかな形の啓発活動でも良かったはずです。それを敢えて有料化したというのは、「消費者に負担を強いれば、それだけエコ活動が進むだろう」と考えてのことなのでしょうか。企業側はお金を使わず、消費者に負担を強いながら、「私たちの企業はエコ活動を促進している」とすり替えているように思えます。

 もう一つ疑問なのは、仙台市のゴミ袋のことです。
 ゴミを出すのに、以前はレジ袋をゴミ袋として使っても良かったのに、今は「市民にゴミ処理費用を自己負担していただく」という理由で、その料金が含まれた指定の袋でないとゴミ回収してもらえません。なぜ、レジ袋をゴミ袋として使ってはいけないのでしょうか。ゴミ処理費用を自己負担するという考え方は分かりますが、専用の指定ゴミ袋を作るというのではなく、レジ袋を利用できるような方法は考えられなかったのでしょうか。
 レジ袋も仙台市指定のゴミ袋も、同じ石油から作られます。レジ袋をゴミ袋として利用しないで、別に新しくゴミ袋を作ったら、それこそ石油の無駄使いです。有限な地下資源を枯渇させないためにも、燃やすことによって二酸化炭素を増加させないためにも、石油の使用を抑えるべきなのに、わざわざゴミの収集と焼却だけのために石油を使って新しくゴミ袋を作るなんて、本末転倒もいいところです。

エコに関する素朴な疑問C(エコカー)                           2010.11.6
 世の中ではハイブリッド車や低燃費車、いわゆるエコカーへの乗り換えを急がせる動きが続いています。エコカー補助金は予算がなくなって、9月上旬に打ち切られましたが、エコカー減税は継続中です。私はこのエコカーへの乗り換えに疑問があります。

 エコカーは、確かに以前の車より二酸化炭素排出量が少なく、そのことだけ考えれば乗り換えた方が良いに決まっています。しかし、エコカーに乗り換えるということは、今まで乗っていた車がゴミになるということです。エコカーが増えれば増えるほど、廃車というゴミも増えるということになります。エコカーに乗り換えたことによって削減される二酸化炭素と、廃車処理のために排出される二酸化炭素では、どちらがどのくらい多いのでしょうか。

 また、エコカーに乗り換えても、今まで乗っていた車がすぐ廃車にならずに、中古車として使われ続けるとすると、二酸化炭素を排出する車(エコカーだって排出量が以前の車より少ないというだけで、やはり二酸化炭素を排出することに変わりはない)がそのぶん増えるだけの話です。日本車は性能がいいので、国内では廃車されそうな車でも、海外に持って行けばまだまだ使われ続けます。自分だけエコカーに乗り換えてエコに貢献したつもりでも、それまで乗っていた車がどこかで使われ続けている限り、自分のエコカーが排出するぶんの二酸化炭素を新たに増やしたことになるのです。そう考えると、そんなに急いでエコカーに乗り換える必要はないのではないでしょうか。

 本当に地球環境のことを考えるならば、ことさらエコカーへの乗り換えを急がず、自家用車の使用を減らすこと(近いところなら徒歩や自転車で行く、できるだけ公共交通機関を利用する)を考えたり、現在乗っている車を廃車にするまで大事に乗ったりすることのほうが大切なのではないでしょうか。

 現在、ハイブリッド車は人気が高く、注文しても納車されるまでずいぶん待たされるような状況だそうです。エコカー補助金やエコカー減税が消費者の購買意欲を刺激して、どんどんエコカーが売れているのだとすると、景気対策としては役に立っているかもしれませんが、環境対策としては役に立つどころか、全く逆の結果を生んでいるように思えます。

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エコに関する素朴な疑問D(割り箸)                            2010.11.14
 私が利用する牛丼系飲食店(吉野家、松屋、すき家)は、いずれも割り箸の使用をやめ、繰り返し使えるプラスチック製の箸(リターナル箸・リターナブル箸ともいう)に切り替えています。こうした動きは、これからさらに広がっていくかもしれません。木材資源の節約のため、また、割り箸を燃やすときに出る二酸化炭素の削減のためということのようですが、私にはこのプラスチック製のリターナル箸が疑問です。
 
 たしかに割り箸は使い捨ての典型のように見えます。使い捨てをやめて何度も使用できる箸に切り替えるのだからいいことのように思われます。割り箸をやめて、繰り返し使える木製や竹製の塗り箸にするなら良いでしょう。しかし、プラスチック製の箸にするんだったら意味がないのではないかと思うのです。
 木材は再生産可能な資源です。自然の森林をうまく活用するなり、植林して木を育てるなりすれば、何度でも生産することができます。また、間伐材(森林を育てる過程で、密集した立木を間引きする際に出る木材)の上手な利用を考えれば、森林を育てながら、ある程度の木材を得ることもできます。
 ところが石油は再生産することができません。地球が何百万年・何千万年もかけて作り出した石油は、地下から汲み出して使ってしまえばそれでおしまいです。人間が作ることも、もう一度地球が作り出すのを期待することもできません。
 だから、本当に節約すべきなのは、石油であって、木材ではないはずです。再生産可能な木材を節約するために、再生産不可能な石油を使うなんて、これもまた本末転倒なことだと言わざるを得ません。
 私には企業のやっているエコ活動が理解できません。というか、エコのためにやっているとは信じられません。エコのため・地球環境のためといいながら、素人が考えても分かるような変なことをやっているからです。
 せめて、個人でマイ箸にしようというときは、プラスチック製のものを買わずに、木製か竹製のものを選ぶようにしたいものです。私の箸は木製ですが、箸箱はプラスチック製なので、今度買うときには木製(あるいは竹製)のものにしようと思っています。

エコに関する素朴な疑問E(水と油)                            2010.11.20
 現在、仙台市内のガソリンスタンド店頭で、レギュラーガソリン 1L の価格は130円前後です。ハイオクは140円前後、灯油は18L で1300円台なので、1L 72円から77円の間といったところです。
 近くのコンビニエンス・ストアで、ミネラル・ウォーターの価格を見てみました。サントリーの「天然水 南アルプス」と、ファミリーマートの「霧島の天然水」は1L のペットボトルで168円、日本コカ・コーラの「いろはす」は、1020mL のペットボトルで178円でした。
 私たちは日常、どちらの価格にも特に疑問をもたずに生活していますが、考えてみるとこれはものすごく不思議なことではないでしょうか。

 日本国内では石油はほとんど産出されません。ほぼ100%輸入です。はるか遠くの産油国で井戸を掘って汲み上げた原油を、タンカーで何千キロと運んで、それをまた製油所で精製して、やっとガソリンや灯油が出来るのです。そんな工業製品といってもいいようなガソリンや灯油が、日本国内(サントリーは山梨県、ファミリーマートは宮崎県、日本コカ・コーラは鳥取県と表示)で汲み上げられて、加工されていない水より安いのです。
 前回も書きましたが、石油は地球が何百万年・何千万年という時間をかけて作り出したものなので、人間が作り出すことも、もう一度地球が作るのを期待することもできません。枯渇が危惧されている貴重な資源です。それが、水の豊かな国であるこの日本で、水より安い価格で流通しているというのは、いったいどういうことなのでしょうか。

 日本には、「湯水のように使う」という言葉があります。「どこにでもあるもののように、惜しげもなくどんどん使う」という意味ですが、現在、価格から見ると、石油は湯水以下のものとして使われているようです。

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エコに関する素朴な疑問F(指標)                             2010.12.4
 自分がしていることがどのくらいエコに役立っているか、あるいは、どのくらい地球環境にダメージを与えているか、比較できる物差しはないものでしょうか。

 2008年に、再生紙偽装問題が世間を騒がせましたが、そのときも「再生紙が、新しく紙をつくるよりどのくらいエコに役立つのか」という根源的な点についてはあまり明確にならなかったように記憶しています。
 このシリーズで前にも何度か書きましたが、(紙の原料である)木材は再生産可能な資源です。また、紙はカーボンニュートラルに近い、環境負荷の小さい製品だと考えられます。それに対して再生紙は、再生の工程で漂白のために石油由来の化学薬品を使うし、そこに到るまでの古紙の回収・運搬に、やはりガソリンなどの燃料を使うので、「再生産可能な資源を節約するために、再生産不可能な資源を使う」という本末転倒が起きているように感じます。
 ペットボトルは石油由来の製品ですが、その再生にも同じようなことを感じます。ペットボトルの再生に使う石油(回収・運搬するという過程で使う燃料としての石油と、再生のとき加える添加物の材料としての石油)の総量と、新しくペットボトルを作るときに使う石油の総量は、どちらがどれだけ多いのでしょうか。
 再生のように分かりやすい例だけでなく、複雑な問題もあります。
 一見簡単な、ガソリン車と電気自動車の比較も、意外と複雑です。ガソリン車が二酸化炭素を排出するのに対して、電気自動車は排出しないので、そこだけ見れば電気自動車の完全勝利のように見えます。ただ、電気自動車の動力となる電気エネルギーの約6割が火力発電(化石燃料を燃やして発電する)によって作られているので、電気自動車一台一台は二酸化炭素を出さないものの、今の段階では電気自動車が二酸化炭素を全く排出しない画期的な乗り物だとは言えません。電気自動車だけでなく、電気エネルギーで稼動するすべての機械類は、それ本体で二酸化炭素を出さなくても、電気エネルギーが火力発電によって作られている限り、二酸化炭素増加と無関係ではありません。
 さらに比較しにくい複雑な問題もあります。
 仙台市では、ペットボトルをリサイクルするときに、ボトルの中を洗うように呼びかけられています。一般家庭でも洗いますが、リサイクル工場でも製品の品質を上げるためにやはり洗浄していることでしょう。結果的に、一般家庭からもリサイクル工場からも、洗浄によって汚れた水が下水として流されます。リサイクルせずに焼却処分すればこうした汚水は出ないわけで、リサイクルというエコ活動が河川の水質悪化を招いたということになります。こういった場合は、何を物差しにして、どちらを優先に考えればいいのでしょうか。指標となるものがほしいと痛切に感じます。

エコに関する素朴な疑問G(地球環境)                          2010.12.11
 これまで7回にわたって「エコに関する素朴な疑問」と題して、エコ活動や環境問題に関係することの中から、私がおかしいと思うことや疑問に感じることを取り上げてきました。このシリーズを終わるにあたって、一つ残った大きな疑問について書こうと思います。

 そもそも「環境」とは、何の環境のことなのでしょうか。また、環境問題で最近よく耳にする言葉に「地球にやさしい」というのがありますが、「地球にやさしい」とはどういうことなのでしょうか。
 いま、環境問題で一番クローズアップされているのが温暖化です。だから、温暖化の原因と考えられている二酸化炭素の排出量が少ないことが、どうやら「地球にやさしい」ということのようようです。さて、この(現在進んでいると考えられている)温暖化は、そんなに地球にとって厳しいものなのでしょうか。

 大気中の二酸化炭素の濃度だけに絞って考えても、地球誕生からの長い歴史の中で見れば、今のペースで100年くらい濃度が上がり続けても、そんなに驚くほど極端な数値にはならないでしょう。平均気温が2〜3℃上昇しても、地球の歴史の中で見れば、これも驚くほどのことではありません。古生代の後期には地球全体の平均気温が20℃を越えていて、地球上には大地を覆う氷床が全くなかった時期もあるそうです。そんな時代には、たぶん海水面は現在よりも何十メートルも高かったでしょうから、海水面がこれから数メートル上昇したとしても、地球にとっては何の問題もないことでしょう。
 気候の変動によって、現在の生態系が壊れるということだって、地球は、過去に恐竜の絶滅などを含めてとんでもない生態系の激変を何度も経験していますから、驚きもせず淡々と自分史の1ページとして書き加えるだけのことでしょう。
 つまり、地球にとって見れば、私たち人類が大騒ぎしている環境問題など、痛くも痒くもない、取るに足らない些細なことなのです。

 けっきょく、環境問題を語るときに使われる「環境」という言葉は、「人類が快適に生きていくための環境」のことであり、「地球にやさしい」とは、「人類が住みやすい環境を守るために都合が良い」という意味なのではないでしょうか。だとすると、環境問題は、ほかの誰のためでもない(もちろん地球のためでもない)人類の自分たち自身の問題ということになります。

 そう考えると、エコ活動や環境問題のことであまり腹を立てずに済みそうです。「エコ活動」は、自分の住む環境を守るために自分がやることなので、そんなに躍起になったり無理や無茶をしたりしなくてもいいわけです。成果が上がれば(子孫を含めた)自分たちが恩恵を受け、成果が上がらなければ、自分で(子孫を含めた)自分の首を絞める、ただそれだけのこと。まさに、人類の自業自得の問題なのですから。

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