もの思いの放課後

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わが青春の鹿峰荘@                                  2006. 7.29

 先日、ちょっと用事があって近くを通りかかったので、久しぶりに学生時代に住んでいたアパートを訪ねてみました。私は今でも同じ仙台市内に住んでいますが、学生時代とは生活拠点が全く違ってしまったため、普段の生活をしている限り、学生時代のアパート近辺に行くことはありません。前回 訪れたのは、もうかれこれ数年前、そのアパートで私の向かい側の部屋に住んでいた現在神奈川在住の友人が来仙した折、懐かしいので行ってみようということになった時でした。
 その時はぼろにはなったもののアパートは健在でしたが、数年ぶりに尋ねてみると、もう建物はアパートとして使われていませんでした。空き家になって荒れ果てており、近々取り壊されてしまいそうな気配でした。青春時代を仲間と共に過ごした思い出のアパートが無くなってしまう寂寥感とともに、学生時代のさまざまな思い出が湧き上がってきました。

 
私が学生時代を過ごしたアパートは、牛越橋のたもとから山の方に向かってかなり急勾配な坂道を登って行ったところにあります。アパートと、そのちょっと奥にある1軒の民家のためだけの舗装もされていない坂道を登って行くと、もういい加減いやになった頃にやっとそのアパートが見えてきます。アパート正面の外壁には看板が掛かっていて「鹿峰荘」(カホウソウ)と書かれています。これがアパートの名前です。牛越橋の近くに鈴木建設という建設会社があって、そこがこの鹿峰荘の大家さんなのですが、鈴木建設の社長の奥さんが旧姓鹿野峰子さんだったので、そこからこのアパートの名前が付けられたという話です。
 建物も、もともとアパート経営をするために建てられたのではなく、鈴木建設の現場に働きに来る出稼ぎ労働者の宿舎として作られたものを、出稼ぎがほとんどなくなったため、格安の値段で学生などに貸すことにしたものらしいのです。そのためアパートの作りもいかにもそれらしく、2階建ての細長い建物のまん中が廊下で、その両側に7畳(6畳+板敷き1畳)の部屋が5つずつ並んでいて、まん中付近には共同の流し・コンロがあって、端っこにはこれまた共同の便所と風呂があるというものでした。(2階も風呂が無いだけで1階と同じ作りです。)電話は、1階の玄関の下駄箱の上にピンク色の公衆電話が1台置いてあるだけでした。
 流し、風呂、便所、電話が共同で、しかも壁が薄くて下手をすると隣の部屋のおならの音まで聞こえるし、窓はアルミサッシだけれど、風向きによってはサッシと壁の隙間から雪が吹き込むというとんでもない安普請のぼろアパートでしたが、学生だった私は全く気になりませんでした。何よりも1ヶ月1万円という当時としても破格に安い家賃が大きな魅力でした。


わが青春の鹿峰荘A                                  2006. 8. 5
 私は大学入学から2年間、仙台二高近くの賄い付きの下宿に住んでいました。神田川の歌詞ではありませんが3畳一間の下宿でした。そこは専門の下宿屋というのではなく、自宅を新築して3人の息子にそれぞれ子供部屋を作ったけれどもまだ幼いので、子供が大きくなるまで下宿人を置くことにしたというお宅でした。下宿のおばさんにはとてもよくしてもらいましたし、食事は家族と同じものを出してもらえるので家庭的でおいしいし、その下宿に不満はありませんでした。けれども、合唱団の活動にのめり込むようになっていた私は、せっかく賄い付きなのに、大学2年の半ばごろからは下宿で夕食を食べることがほとんどなくなっていました。また、下宿の門限が10時で、それを過ぎるときには電話連絡を入れて鍵を開けておいてもらうのですが、その回数も多くなっていました。夕食代も無駄になるし、門限もなかなか守れなくて迷惑をかけるし、いっそのことどこかのアパートに移り住もうかと考えるようになりました。そこで引越し先の候補として浮上してきたのが鹿峰荘です。

 鹿峰荘には合唱団の正指揮者Nさんが住んでいて、私もコンパで門限を過ぎてしまったときなど何度か部屋に泊めてもらったことがありました。その中で最も強烈に覚えているのは大学2年の5月、大雨の日のことです。
 その日、私は合唱団仲間といっしょに、3月に大学を卒業した合唱団の先輩の T さんのお宅にお邪魔して飲んでいました。外はものすごい大雨でしたが、飲んでいる私たちは一向に気にしませんでした。しこたま飲んで日付も変わり、そろそろお暇しようということになったとき、雨は上がっていました。とっくに門限が過ぎていた私は、Nさんの部屋に泊めてもらうことになって、雨上がりの道をいっしょに鹿峰荘に向かって歩いて行きました。最後の難関、ただでさえきつい坂道を酔った足取りでフラフラと登って行くと、ようやく鹿峰荘が見えてきました。ところが、深夜1時過ぎだというのにどの部屋にも灯りが点いており、住人が廊下を行ったり来たりしていて何やら物々しい雰囲気です。
「どうしたんですか?」
Nさんは玄関を入るなり廊下にいた住人に尋ねました。1号室の住人T宮さんが、
「N君、大変だよ。部屋の窓を開けて見てみなよ。」
と言うのでNさんは急いで部屋に入り、窓を開けて見ました。すると、いつもならそこにあるはずの地面がないのです。
 鹿峰荘は、牛越橋付近で広瀬川に注ぐ三居沢のちょっと上流の方にあり、三居沢の流れを背にして建っているのですが、大雨で建物の地盤が沢に向かって崖崩れを起こしていたのです。Nさんの部屋側の地面は、建物から1mも離れていないところで崩れ落ちてなくなっていました。もう一度崖崩れが起きたら、建物ごと沢に転落しかねない極めて危険な状況です。
「どうする?危ないから自分の下宿に戻るか?」
Nさんはそう言ってくれましたが、これから下宿に戻っても、こんな時間では鍵を開けてもらうことはできません。私は、酔っぱらって気が大きくなっていたこともあって、
「今から帰っても下宿に入れないから、Nさんがかまわないのなら泊めてください。崩れたら崩れたで、運が悪かったと思ってあきらめるから。・・・でも、たぶん大丈夫だよ。」
と、全く根拠がないのに自分で大丈夫だと決め付けて、Nさんの部屋に泊めてもらいました。

 運良く、それ以上崖崩れは起こらず、私たちは無事朝を迎えることができました。外は雨上がりの爽やかな青空が広がり、何事もなかったように一日が始まっていました。

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わが青春の鹿峰荘B                                  2006. 8.11
 私が3畳の下宿から鹿峰荘に引っ越したのは、大学3年生になる春休みのことでした。高校の同級生でいっしょに宮教大に入ったマンドリン部のA君に引越しの手伝いを頼みました。(混声合唱団とマンドリン部は一つのサークル室をいっしょに使っていたので、A君とは毎日のように顔を合わせていました。)私はそのとき運転免許を持っていなかったので、免許を持っていたA君に引越し荷物を運ぶ車の運転を頼んだのです。レンタカーで軽トラックを借りるつもりでしたが、その日はあいにく出払っていてバンしかないということでした。川内の下宿と鹿峰荘とはあまり離れていないし、荷物もそれほど多くないので、何回もピストン輸送すればいいだろうということでバンでの引越しになりました。
 何せ3畳一間の下宿の荷物ですから、大きなものと言っても机と本棚ぐらいなもので、ほかにたいした荷物はありません。けっきょくバンで2往復しただけで、引越しは思ったよりあっけなく終わってしまいました。こうして私の鹿峰荘での生活が始まったのです。

 鹿峰荘は、崖崩れがあってから住人が何人も出て行ったらしく、1階はずいぶん空部屋が目立っていました。でも、Nさん(3号室)はそのまま住んでいましたし、私が入居する5ヶ月ほど前に、合唱団の1年後輩の金太君が、Nさんの隣部屋(4は欠番で5号室)に引越して来て暮らし始めていました。そのような鹿峰荘に私も引越したというわけです。(私は11号室です。)
 ところが、金太君が入居し、私も引越したということからか鹿峰荘は合唱団の中で俄然脚光を浴び、それからというもの鹿峰荘には短期間に合唱団のメンバーの入居が相次ぎました。私の隣部屋(10号室)にO君が入居し、向かい(2号室)にM君が入りました。さらに、私の部屋のもう一方の隣(12号室)に先輩のSさんまで引越してきました。
 その後しばらくしてからも鹿峰荘に引越してくる合唱団員がいて、6号室にK君、8号室にT君が入りました。最終的に1階の10部屋のうち8部屋が合唱団のメンバーということになり、鹿峰荘はまるで宮教大混声合唱団の合宿所のような様相を呈しました。

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わが青春の鹿峰荘C                                  2006. 8.19
 鹿峰荘での暮らしはまるで学生寮のような感じでした。それは住人のほとんどが大学生(1階は主に宮教大生、2階は主に東北大生)だったということもありますが、流し、風呂、便所、電話が共同というアパートのつくりによるところも大きかったと思います。

 鹿峰荘にはゴミ当番と風呂当番がありました。ゴミ当番は1階と2階それぞれ別にやっていましたが、風呂当番は1階・2階合わせての当番でした。(こういった当番があるということ自体、普通のアパートでは考えられませんね。)
 ゴミ当番の仕事は、流しの下に置いてある生ゴミ用の大きなポリバケツを回収日の朝に収集所まで持って行き、回収後に空になったポリバケツを元の場所に戻すことでした。(現在はゴミ袋による回収ですが、当時はポリバケツで回収していました。)ポリバケツを1回空にすれば終わりなので、ゴミ当番は1週間ごとに交代して行くはずですが、収集所が遠い(あのただでさえきつい坂を下って牛越橋のたもとまでポリバケツを持って行かなければならない)のでみんなつい億劫になり、何週間も(ひどいときは1ヶ月以上も)ゴミを溜め込んでしまうのでした。だから、本来ならば2ヶ月に1度くらいの割りでゴミ当番が回って来るはずなのに、実際は1年に1度ぐらいしか当番になりませんでした。
 風呂当番はアパートの住人全員の輪番制でしたが、1日交代なので2週間に1度くらいの割りで回って来ました。風呂当番は、前日の風呂の残り湯を捨ててバスタブをきれいに洗い、新しい水を入れて風呂を沸かすところまでが仕事です。風呂釜は灯油を焚いて沸かすもので火力が弱く、お湯が沸くまでに1時間以上かかるため、風呂当番は4コマ目に授業のない日でないと出来ませんでした。(でも、当番が忘れていたり、都合が悪くなったりしたときは、誰かが代わりに風呂を沸かしてくれていました。)
 電話も共同でしたが、電話への対応は当番ではなくて、近くに居合わせた人がすることになっていました。電話のベルが鳴って誰が一番先に受話器を取るかをなぜかみんなで競っていました。けっきょくは電話が置いてある玄関に近い1号室、2号室、11号室、12号室の住人が対応することが多かったと思います。電話は1階にしかないので、2階への取次ぎは電話のすぐそばにあるインターフォンを使って行いました。
「○○さん、電話が入っています。」
と呼び出しをかけるのですが、そんなところも学生寮っぽいアパートでした。

 携帯電話が当たり前になったいまどきの学生には、アパートに1台の共同電話の生活なんて考えられないことだと思います。隔世の感があります。

わが青春の鹿峰荘D                                  2006. 8.26
 鹿峰荘はある意味で非常に環境のいいアパートでした。少し離れたところに民家が一つあるものの、ほとんど山の中の一軒家状態で、青葉山の大自然に囲まれていたからです。

 何といっても最高なのは風呂です。でも、もともと安普請のアパートですから、風呂場が立派だとか浴槽が大きいとかいうことはありません。では何が最高かと言うと、アパートなのに温泉旅館なみの露天風呂気分が味わえるということです。
 鹿峰荘の風呂場は三居沢に面していて、窓を開ければ目の前に青葉山の木々の緑が広がっているし、三居沢を流れる清流の音が飛び込んで来ます。また、春にはウグイス、夏にはセミの声、秋には虫の音が聞こえ、風流この上ありません。冬は冬で、雪景色の青葉山を見ながらの入浴というのもなかなか乙なものです。仙台広しと言えども、他人の目をはばかることなく窓を開け放ち、山の四季の風景と沢音や鳥の声、虫の音を楽しみながら風呂に入れるアパートは他にないと思います。(風呂当番でなくても、自分で沸かせばいつでも入浴できるので、授業のない日は朝風呂を楽しむこともできたのです。)
 もう一つの良い点は、ぼろアパートの台所には付き物のはずのゴキブリが全くいないということです。私が鹿峰荘に暮らす間に、ゴキブリはただの一度も見かけませんでした。
 一説によると冬の鹿峰荘は隙間風がすごいので、寒すぎてゴキブリが生息できないのではないかということでした。また、Nさんの説では、ゴキブリを食う蜘蛛がいるのでゴキブリがいないのだろうということでした。確かにゴキブリは見かけませんでしたが、蜘蛛はよく見かけました。巣を張らない種類で、真黒で足に毛が生えたような大きな蜘蛛(土蜘蛛の一種なのでしょうか)が鹿峰荘の周りはにたくさんいました。廊下にゴミが落ちているのかと思ったらその蜘蛛だったということもありました。そんなわけで、蜘蛛が食ってしまったのでゴキブリがいないのだというNさんの説には説得力がありました。まあ、人によっては、そんな大きな気味悪い蜘蛛がたくさんいるんだったらゴキブリの方がまだましだと思うかもしれません。

 さらにもう一つ、鹿峰荘がいかに山の中にあるかということを物語るエピソードを紹介します。
 私が学んだ宮教大の一般教養の体育には「山野歩走」という種目があります。大学は青葉山に建っていますが、その青葉山の中を歩いたり走ったりするという自然に恵まれた宮教大ならではの種目です。一般教養の体育は全員の履修が義務付けられているので、当然のことながら私も履修しました。
 その日の体育は山野歩走の授業で、私たち学生は先生の後について、大学の裏手(男子寮の付近)から青葉山を下っていきました。林の中を歩き、藪を掻き分けるようにしてしばらく下っていくと、木々の間から1軒のかなり大きなアパートらしき建物の屋根が見えてきました。それは紛れもない鹿峰荘でした。ところが鹿峰荘のそばを通るとき、意外なところに建っているアパートを見て驚いた学生たちの会話が聞こえてきました。
「うわあ、こんな山の中にアパートみたいなのがある!」
「すごい!こんなところに人が住んでるのかなあ・・・」
私は思わず、
「こんなところで悪かったな!俺はここに住んでいるんだ!」
と叫びそうになりましたが、奇異なものを見るような目か、あるいは憐れみの目で見られるのが落ちだと思って黙っていました。

わが青春の鹿峰荘E                                  2006. 9. 2
 鹿峰荘での生活は浮世離れしたものでした。まず、鹿峰荘1階の住人はほとんどテレビを見ませんでした。アパートの壁が薄いので、誰かが部屋でテレビを見ていればすぐ分かるのですが、私には鹿峰荘の1階でテレビの音が聞こえたという記憶がありません。鹿峰荘の住人でテレビを持っていた者も少なかったのではないかと思います。鹿峰荘はテレビの受信状態が非常に悪いのでテレビがあっても見ようという気が起きないからです。じつは私の部屋にはテレビがありましたが、私自身全く見ませんでした。
 川内の3畳の下宿のときは、狭くて置き場に困るということもあって自分の部屋にテレビはありませんでした。鹿峰荘に引越して部屋が広くなったので、世事に疎くならないようにせめてテレビぐらいは・・・と郷里の母が買ってくれたのですが、鹿峰荘ではけっきょく無用の長物でした。
 では、テレビも見ないで鹿峰荘でいったい何をしていたかと言うと・・・これが何をしていたかさっぱり記憶にないのです。それは合唱団の活動などで遅くまで大学にいて鹿峰荘には寝に帰るだけだったということもあると思います。また、淡々とした平穏な日常生活は記憶に残りにくいということなのかもしれません。とにかく、アパートの自分の部屋で何をしていたかこれと言った記憶はありません。

 よく覚えているのは、鹿峰荘のみんなで声楽アンサンブルの練習をしたことです。当時、宮教大混声合唱団ではパレストリーナやラッススなどのミサ曲をよく演奏会に取り上げていたということもあって、合唱団の男声連中はみな、ルネッサンス期のポリフォニーに心酔していました。合唱団の合宿所のようなアパートですから当然の成り行きで、せっかく同じアパートにいて歌わない手はないと、その時(6号室のK君・8号室のT君入居前)鹿峰荘にいた6人で声楽アンサンブルを結成したのです。
 その声楽アンサンブルはアパートの名を冠し、「カホウソウ・コンソート」と名づけられました。そして最初に練習した曲も、パレストリーナの Sicut cervus(鹿の如く)でした。Sicut cervus はその後ずっと カホウソウ・コンソートのテーマソング的なレパートリーとなりました。
 カホウソウ・コンソートの練習は、部屋が一番片付いている10号室(O君の部屋)が会場になりました。最初のうちは、夜みんながアパートに帰ってきてから練習していましたが、帰宅時間がバラバラで全員そろいにくいというので、朝ならみんないるだろうと、だんだんに早朝午前6時ごろからの練習になりました。朝っぱらから10号室に集まり、ほかの住人の迷惑も省みず、かなりがんがん歌いました。
 アパートの住人にとってはとんだ迷惑だったかもしれませんが、カホウソウ・コンソートは定期的に練習を続けました。Sicut cervus のほかにも何曲かレパートリーを作り、大学祭のステージでは混声合唱団とは別に、カホウソウ・コンソートとして単独で出演して歌いました。

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わが青春の鹿峰荘F                                   2006. 9. 9
 今回は鹿峰荘での食生活について書こうと思います。アパートの廊下の中央付近に流しとコンロがあり、水道はもちろんのことガスも自由に使えた(水道料・ガス代は住人全員で頭割りになります)ので、住人はけっこう自炊をしていました。私も賄い付きの3畳の下宿のときは炊事道具など何も持っていなかったのですが、いつの間にか、部屋に冷蔵庫、炊飯器、オーブントースター、フライパン、鍋など一通りの道具がそろっていました。

 私は朝食はだいたいトーストでした。コーヒーよりも紅茶が好きだったのでトーストと紅茶、時間的余裕があるときはベーコンエッグも作って・・・といった感じでした。
 昼食はほとんど大学の食堂で食べていたし、夕食も生協で済ますことがありました。また、宮教大混声合唱団はやたらにコンパの回数が多かった(月・水・土が練習日でしたが、そのたびに飲んでいたような気がします)ので、夕食を作る回数はあまり多くなかったかもしれません。それでも1週間のうち3日くらいは自炊していたことになります。
 夕食の基本メニューは野菜炒めでした。ニンジン、玉ねぎ、ジャガイモなど日持ちのよい野菜を常備しておいて、それに適宜、キャベツ、モヤシ、ピーマン、肉など手に入ったものを加えて炒めればいいわけです。食事が偏りがちな男の一人暮らしも、野菜炒め中心の食生活をしていればいいだろうという安心感がありました。また、野菜炒めは簡単に出来て失敗がないし、パンにもご飯にも、ラーメンにも合います。さらに、野菜炒めに途中で水を加えて煮込めばカレーやシチューにもなるし、野菜を少なめにしてご飯をいっしょに炒めればチャーハンにもなるし、とにかく融通が利くのです。人間の考えることはみんな同じらしく、野菜炒めは私だけでなく鹿峰荘の住人全員の定番中の定番メニューでした。
 定番と言えば、カレーもみんながよく作ったメニューです。誰かがカレーを作ると、ご飯だけ自分で炊いて、ルーはお相伴に与ったりしました。お金もないし買い置きの材料も底をついているし、さて今日は何を食べようか・・・と途方にくれているときなど本当に助かりました。
 カレーの食べ比べ会もやりました。みんなで材料を出し合って、味付けする前の段階まで共同で作ります。そのあとそれぞれの鍋に分けて自分なりの味付けをするのです。一口にカレーと言っても、その家庭によって使うルーや調味料・スパイス・隠し味などがぜんぜん違うし、一人一人味の好みやこだわりがあります。途中まで同じだったはずなのに、出来上がったカレーが鍋ごとに全く違ったものになっているのには驚きました。
 みんなでワイワイ言いながら作って、「やっぱり自分が作ったのが一番美味しい!」などと、これまたみんなでワイワイ言いながら食べました。

わが青春の鹿峰荘G                                  2006. 9.16
 いくら1ヶ月1万円という破格の家賃が魅力的だといっても、流し、風呂、便所、電話が共同で、しかも、当時の学生の目から見てもかなりオンボロなアパートにあえて住んでいたわけですから、鹿峰荘の住人はみんな一癖あるメンバーだったのだと思います。でも、鹿峰荘での生活が楽しかったのは、合唱団の中でもアクの強い、けれど気の合うそんな仲間たちと一緒だったからに違いありません。
 今回は鹿峰荘の1階に住んでいた宮教大の学生(全員が混声合唱団団員)のプロフィールを紹介します。
 
 2号室はテノールのM君です。M君は作曲を専攻する音楽科の学生で、ピアノ弾きでもありました。鹿峰荘の部屋には、とてもピアノは置けないので、彼は代わりにどこからか電気オルガンを入手してきてよく弾いていました。そのオルガンの上の壁には J.S.バッハの肖像画が飾られていました。彼が弾いていたのは主にバッハか、そうでなければ曲なのかデタラメなのか区別がつかないようような現代曲でした。
 3号室はベースで学指揮経験者(漢字の間違いではありません。学生指揮者だったという意味です。)のNさんです。Nさんは一番長く鹿峰荘に住んでいましたから、アパートの主のような存在でした。私は鹿峰荘に引越してくる前にNさんの部屋に何度も泊めてもらいましたが、几帳面なNさんの部屋はいつもきれいに片付いていていました。Nさんは生活も規則正しくて、朝、目を覚ますと、まず最初にポットに入っていた昨夜のお湯を捨てて、新しくお湯を沸かすのが日課でした。鹿峰荘1階の住人は、Nさんがお湯を沸かす音を聞いて朝が来たことを知ったのでした。
 音楽はその人の生き方そのものが表れるものかも知れません。今にして思うと、Nさんの指揮は彼の性格どおり合理的で無駄がなく美しかったし、Nさんの音楽づくりは実に真面目で誠実なものでした。
 5号室はテノールの金太君です。一度、鹿峰荘に引越す前の金太君の部屋(八幡町)に行ったことがありますが、部屋の中は、畳が見えないほどさまざまなものやゴミであふれていました。鹿峰荘に引越してきても金太君の生活スタイルは変わることなく、やはり部屋は畳が見えないほどのものに埋まっていました。でも彼は、大学では数学科の教授に代わって授業をするほどのコンピューターのエキスパートでした。そういえば部屋を埋めて尽くしていたのものの多くはコンピューター関係の本や雑誌でした。
 6号室はテノールのK君です。K君は市内に実家があるのになぜか鹿峰荘にも部屋を借りていたという不思議な人でした。実家の方に行っているか鹿峰荘にはあまり帰ってこないし、たまに帰ってきてもほとんど部屋にこもっているし、鹿峰荘では影の薄い存在でした。けれどもK君は落語に造詣が深く、そちらの方面では「万作さん」というニックネームで仙台の学生の間でかなり有名人のようでした。
 8号室はベースのT君です。T君は、鹿峰荘の住人としては珍しく料理のレパートリーが広くて、しかも、彼が作る料理は(野菜炒めの応用ではない)プロ顔負けの本格的なものが多かったようです。たらこスパゲティーや、若鶏腿肉のガーリックソテー、アサリの白ワイン蒸しなどをよく作っていました。ポークカツレツ(いわゆるトンカツ)などかなり手の込んだ料理も廊下の台所で手際よく作ってしまうので、みんな驚きのまなざしを向けていました。
 10号室はテノールのO君です。O君は2年生で合唱団の運営委員長、3年生で委員長を務めたしっかり者です。部屋はNさんと同じようにいつも小ぎれいに片付いていました。Nさんの部屋が几帳面な性格の表れだとしたら、O君の部屋は、彼の堅実な性格が表れた整理整頓された部屋というべきでしょう。アクの強い(悪く言えば)変わり者の多い鹿峰荘の住人の中にあって、O君はほとんど唯一の一般人・常識人でした。
 12号室はベースのSさんです。Sさんは鹿峰荘に引越す前は、上杉にある薪で風呂を沸かすという、これまた古風なアパートに住んでいたそうです。そのアパートは家賃2万円ちょっとで(決して高くはありませんが)鹿峰荘の方がより安いということで引越してきました。
 Sさんは声楽専攻で小野先生に師事していましたが、鹿峰荘の部屋からは(たぶんシューベルトだと思いますが)ドイツリートを歌う声がよく聞こえてきました。

 音楽をする仲間がすぐそばにいて、話がしたくなったら部屋のドアをノックするだけでいい。鹿峰荘はそんな素敵なアパートでした。

わが青春の鹿峰荘H                                  2006. 9.23
 鹿峰荘の住人たちで大崎八幡のどんと祭・裸参りに参加したことがありました。どういう経緯か分かりませんが、大家の鈴木建設が「装束や道具などは全部用意するから」と言って鹿峰荘で裸参りに参加する者を募ったのです。当日は夕食は出してもらえるし、裸参りの一行は行く先々の飲食店でただ酒が飲めるということで住人たちは色めき立ちました。私は別にただ酒を飲みたかったわけではありませんが、裸参りをする機会なんて今回を逃したらもう一生ないかもしれないと思って参加することにしました。
 当日は、鈴木建設の事務所で装束一揃いを受け取り、(いちおう禊の意味の)早めの風呂に入って着替えると、また事務所に集合しました。みんなは事務所で、豚汁とおにぎり食い放題の夕食を済ませました。牛越橋のたもとにある鈴木建設の事務所から大崎八幡までは目と鼻の先で、牛越橋を渡って行けば徒歩10分もかからず着いてしまう距離ですが、裸参りはわざわざ町の中心部まで出て行ってそこから始めるということでした。どうやら裸参りの格好で国分町界隈の馴染みの飲み屋やスナック、バーなどに顔を出して、鈴木建設の存在をアピールしようという魂胆のようでした。鹿峰荘(鈴木建設)一行の裸参りは青葉通り一番町からスタートしました。
羽織袴は鈴木建設の専務です とあるスナックの前で記念撮影
 私たちは、鈴木建設の専務の先導で、鈴木建設の馴染みらしいスナックやバー、クラブなどに次々に顔を出しました。そのたびにコップ酒が振舞われ、私たちはそれを一気に飲み干しながら店を巡っていきました。コップ酒をそんなにガブガブ飲むなんて普段は考えられないことですが、真冬の夜にほとんど素っ裸でいるわけですから、酒でも飲まなければ歯の根も合わないほどの寒さです。裸参りの人たちが何であんなに威勢良く酒をあおるのか、自分でやってみて初めて分かりました。
 でも、いくら寒さで酔った気がしないといっても、何軒もの飲み屋でコップ酒をあおり、しかもビルの階段を駆け上がったり駆け降りたりして店巡りをしているのですから、さすがにみんな酔いが回って来て、国分町をあとにする頃にはすっかり出来上がっていました。
 八幡町に入ると、どんと祭見物の人達の行列がずっと続いているのですが、裸参りは最優先で道を開けてもらえました。なかなかいい気分です。私たちは大勢の見物人の声援を受けて大崎八幡への参道を駆けて行きました。
 ところがただでさえコップ酒を大量に飲んでいる上に、最後に参道の坂道を駆け上がったので一気に酔いが回り、境内にたどり着いたとき、鹿峰荘の裸参り一行はただの泥酔した酔っ払い集団になっていました。境内の火の回りを3周したあとは、もう、巫女さんに抱きつく奴はいるし、ほかの裸参りの一行と喧嘩を始める奴はいるし、外国人観光客と英語で話し込む奴はいるし、神殿の柱に立ち小便する奴(すいません、私です。)はいるし、めちゃくちゃでした。
 私の記憶にあるのはここまでで、その後どうなったのか、どうやって鹿峰荘に帰り着いたのか全く覚えていません。
 気がつくと、もう成人の日(当時は1月15日)の朝で、私は自分の部屋で寝ていました。あれほど飲んだのに、なぜかその日の快晴の空と同じようにとても清清しい目覚めでした。

もの思いの帰り道 >>
わが青春の鹿峰荘I                                  2006.10. 7

 引越し前に撮った私の部屋の入口ドアの写真です。
 アルゲリッチのポスター(じつはグラモフォンのカレンダーの表紙)は、ドアの窓から廊下の灯りが入って寝るときまぶしいので貼ってあったものです。
 赤いのは郵便受けとして使っていた紅茶の空箱で、その下に貼ってある2枚の紙は家賃の督促状です。(もちろん支払ってから引越しましたよ。)
 大学を卒業した私は、宮城県の教員採用試験を受験して合格していました。当時(今でもかもしれませんが)宮城県では教員採用試験の合格にランクがあり、A採用は確実にどこかの学校に正式採用され、B採用は、A採用者だけでは足りなかった場合に成績上位者から順次採用されていくというシステムになっていました。B採用だった私は、3月に入ってもなかなか採用通知が来ないので、今年はもうダメかなとあきらめかけていました。ところが、3月31日に電話があり、4月1日に教育委員会に呼び出されました。行ってみると、仙台市内のある小学校で学級増があり、急遽採用ということになったのです。

 急に採用されて赴任先が決まったので、鹿峰荘からかなり遠い学校でしたが、私は引越しする余裕がなく、そのまま鹿峰荘に住んでいました。ところが鹿峰荘から仙台市東部の郊外にあるその学校まで、バスを乗り継いで1時間以上もかかりました。牛越橋バス停を朝7時ちょうどに出るパスに乗らないと始業に間に合わないのです。さすがに毎朝7時前にアパートを出なければならない生活は辛く、勤めて半年が過ぎる頃から私は真剣に引越しを考え始めました。
 勤めて約1年が経った春、通勤バス路線近くに手ごろなアパートを見つけた私は、一気に引越し計画を現実化させました。不動産屋でアパートの仮契約を済ませると、そのことを隣部屋のO君に話しました。するとO君は、
「引越しを考えているんなら、話してくれればよかったのに。」
と言うのです。
「じつは、合唱団のA子ちゃんが、妹さんといっしょに住んでいたアパートを引き払うので、後に誰か入る人がいないか探しているんだって。俺一人で借りるには広すぎるのでどうしようかと思っていたんだけど、そういうことなら Shin さん、いっしょにそのアパートを借りませんか。」
 O君に詳しく聞いてみると、A子ちゃんのアパートは私の通勤バス路線からそれほど離れていないところにあることが分かりました。それから話はとんとん拍子に進み、私は自分で見つけたアパートの仮契約をキャンセルして、O君といっしょにA子ちゃん姉妹の住んでいたアパートを借りることにしました。
 いよいよ気の合う仲間といっしょに楽しく暮らしてきた鹿峰荘から去る日がやってきました。ところが、感慨深いはずのその日のことは全く記憶にありません。O君といっしょに引越し作業をしたはずだし、鹿峰荘の住人も手伝ってくれたはずなのに、その日のことは不思議と何も思い出せないのです。
 学生時代たくさんの思い出を作ってきた私の鹿峰荘での生活はこうして終わりました。

 鹿峰荘でいっしょに暮らした仲間たちは今、それぞれの場所でそれぞれの人生を送っています。でも、あのとき鹿峰荘で過ごしたきらめくような時間はきっとみんなの胸に宝物として大切に取っておかれていると思います。                            

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